昨日はイギリス文化史教科書の研究会。お題はサッチャリズム、80年代。
新自由主義については、ポストフォーディズム的労働への労働の変化と、それにともなう「人間の規範」の変化というところが重要であり、新自由主義下の文学や文化を問題にするときにはそのような「人間の規範」と文学・文化との、かなりの迂回路を経由した関係を考える必要があると思うのだが、7時間にわたった研究会を経て、あくまで「イギリス文化史」教科書という枠でそれを問題にすることの難しさを痛感した。というのも、上記の状況はほぼグローバルな状況であるといえるのだから。改めて「イギリス」という特殊性でそれを語る必然性の問題が。
いや、要はそのような問題系をあぶり出すための「いいネタ」を仕入れられるかどうかだけかもしれないが。むしろ、イングランドではなく、ウェールズなりの「周縁」から見た方がうまく行くかも知れないという直感。
それから、系譜をどこまでさかのぼるのか、という問題。これは話題になったが、たとえば新自由主義的な「自己のマネージメント」が60年代アメリカのセラピーの言説にその起源を求められるという説について、それをもっとさかのぼって戦間期に求めることも可能。これは実証的にどちらが正しいか、という問題よりも、現代に直結する新自由主義を考える時に、後者くらいに長い歴史的パースペクティヴを取った方が、「解毒剤」になるという側面がある。これまた、いざ教科書にする時はどうする、という問題もからみつつ。
帰りの新幹線では研究会の時にいただいたこの雑誌を読む。
水声通信 no.26(2008年9/10月号) 特集 カズオ・イシグロ
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カズオ・イシグロ特集より、遠藤不比人「とくに最初の二楽章が……──カズオ・イシグロの〈日本/幼年期〉をめぐって」。
ご本人は65点の出来とのことであったが、これはかなりきわどい隘路をあえて抜けようとする論文であって、挑戦的だと思った。あり得る最悪の誤読は、「イシグロの日本性に関する論文」というものかもしれない。もちろん、それは本当に最悪の誤読であって、論文の中ではくり返し、「日本」はアガンベンの「幼年期」と同じく、単純な実体ではないことが強調されている。それにも関わらず、そのような誤読はこの論文に亡霊のようにつきまとうのではないかと思う。イシグロにおける日本とアガンベン的幼年期を等置することによって、「イシグロの日本性」などというものを否定してなおそこに残る残滓が、イシグロのテクストの上にどうしようもなく(「不気味なもの」として)現前してしまう様相があぶり出される。これを逆に捉えれば、そのような残滓は「イシグロの日本性」といった言説の補遺としてのみ見いだしうるのではないか。「補遺」は補強しつつ破壊する。つまり、イシグロ作品と幼年期としての日本は、お互いに依存しあいつつ、つねにお互いを未完なものに留めようと運動する。
「越境する文学」といったクリシェにもかかわらず、イシグロがなぜ過剰な日本、過剰な英国を描くのかという問題は、そうすると、過剰な同一化だとかその逆のアイロニーに還元することはできないだろう。それは結構真面目な残滓との交渉なのであって(遠藤論文であれば反復による徹底操作であって)、それがもっとも良質な形で出ているのは最初の二作だ、という点はその通りかもしれない。
昨日も話題になったこの本がもっと早く出ていれば、当然参照されたことでしょう。
- 作者: 十川幸司
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この本の挑戦を一言で言えばまさに前エディプス期=幼年期のポスト構造主義における地位の再考なのであるから。ラカン以降、事後性のロジックに支配されてきた前エディプス期を、十川は単なる実体として措定するわけではない。まさにアガンベンの幼年期のごとく、「言語の外側の実体でもなく、内側でもない、でも、とにかく、ある」という地位。本書ではカトリーヌ・マラブーを経由した脳科学における「可塑性」がキーワードとなっている。この場合可塑性はかなりポジティヴなものであり、ポストエディプス期は前エディプス期に一方的に形づくられるのでもなければ、その逆でもなく、まさに可塑的に「形を受け取り、かつ与える」のだ。臨床の場に限らず、そのような「形を受け取り、与える」媒体となるのは、言語的なものにかぎらない他者との接触の経験の総体である。ここで想起するのはウィリアムズ・リレー連載の「討議」の結語だ。人間は経験の総体を媒介にして自己を、そして他者を、そしてシステムを変えうる、もしくは「変えられないはずはない」という、根本的な「信」である。