「社会派映画」の作り方〜『悪は存在しない』(2024)

濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』以来の長編で、ヴェネツィアで銀獅子賞を取ったということで鳴物入りですが、全く裏切ることのない素晴らしい映画でした。

まずは映画美学的なところで凄く評価されるんだろうなと思っていたらすでにそのような映画評もあります。確かにその通りで、序盤の少しずつ過剰な長回し、世界観が不意にずれて脱臼したような感覚を与えるカメラの視点の移行(陸わさびを見つける場面とか、その後の学童にお迎えに行った後の出発の場面とか)、そしてそもそもこの映画の発端となったという石橋英子さんの音楽。

ただ、そういった美学が何に資しているのかということを手放したところに、映画の価値の評価はできないと思うのです。つまりその物語内容や社会的内容ということです。この映画の場合、コロナ給付金を目当てにしたグランピング・サイトの開発計画と、水と自然を大事にする地元住民との衝突ということになるのですが、この映画のすばらしいところは、そのような社会的内容を表現するにあたって、名前は挙げませんが日本で社会的な映画を撮っているとされるあの監督だったらやりそうな勧善懲悪的なキャラと図式作りは徹底的に拒否して、登場人物たちを役の役割のために動かすようなことはせず、そのまさにタイトルにある通り「悪は存在しない」現実を提示することです。

濱口監督も社会的内容ありきではないといった発言をしていますが、そうだからこそこの映画は深く社会的な映画になりえているのではないかと感じました。その意味では、ケン・ローチ監督作品を観ている感覚にどこか近い(ローチ作品は「社会問題」を描くことを主眼にしていると思われがちですが、その社会性は、「問題」を描くことにではなく、登場人物たちのリアリティを裏切らないことにこそあると私は思っています)。

ケン・ローチといえば、彼のBBC時代のテレビドラマにThe Big Flameという、港湾労働者のストライキを描くドラマがあるのですが、それはもうひたすらに「会議」を描くんですね。労働者や労働組合の議論をひたすらに撮る。それでちゃんとドラマになっているのです。逆に、私は多くの映画は(ドラマ、小説も)「会議文学」とし捉え返すことができると常々思っています。会議はドラマになるし、ドラマのコミュニケーションを多くは実は会議なのではないか。会議は矛盾の露呈、論争、そして調停(または決別)と意志決定(もしくはその失敗)の場です。だいたいのドラマのコミュニケーションはそれで成り立っているのではと。

『悪は存在しない』も、みごとな会議映画だったと思います。もちろん、開発業者の説明会の場面のコミュニケーションも見事なのですが、その後視点がグランピング・サイトを開発する芸能事務所に移った際の会議、そしてなんと言っても白眉は高橋と黛の自動車の中での会話です。最後のは会議ではないのですが、あの発見的なコミュニケーションは、その前に行われた「ダメな会議」の正反対、裏側にあるように感じました。

結末は(ネタバレになるので詳しくは書きませんが)色んな解釈を呼ぶものだと思いますし、それこそ正解のないやつだと思いますが、私はひとつの仮定を持っています。動物であれ、人間であれ、傷つけられた(と思った)ら反撃するかもしれず、その暴力に悪は存在しないということです。そういう暴力が道徳の彼岸にあるならば、もしくは自然のようなものであるなら、では例えば戦争のような暴力は道徳によって抑制できるものなのか。そんなことを思いながら観ました。