ほぼ一日、カズオ・イシグロのふざけた文章と、卒論の文章(前任校の)を読み続けたおかげで、頭がどうにかなりそう。今回の再読で気づいたが、The Remains of the DayのStevensの兄は、ボーア戦争で死んでおり、それが無能な将軍の無謀な作戦のせいだったというエピソードがあるが、これは第二次ボーア戦争のことであろう。で、その戦いは何で将軍は誰なのか。1900年のパールデベルグ(Paardeberg)の戦いの、「血の日曜日」と、キッチナーであろうか。
それはともかく、『日の名残り』が帝国の縮小という神話的物語(神話といっても縮小したのは事実だが)を巧みに示す小道具がここにもあったわけだ。
ところで、ブログ読者はかぶりまくりであまり意味がないかもしれませんが、id:melanie-ji-wooさんがオーガナイズするワークショップのお知らせです。私はもちろん行くつもりです。
日本英文学会関東支部主催ワークショップのご案内
【日時】:2009年11月14日(土)午後2時〜5時
【場所】:成蹊大学10号館2階大会議室
【講師】:Juliet Flower MacCannell
(カリフォルニア大学アーヴァイン校名誉教授)
【演題】:The Writing Ego: Woolf, Joyce and the Feminine Subject
【司会 兼 ディスカサント】:遠藤 不比人(成蹊大学)
要旨
ラカンのジョイス読解を手がかりにしながら、ジョイスとウルフの「書く自我」を比較します。そこに見えてくる精神分析的な差異は、歴史/政治を媒介に「アイルランド/イングランド」あるいはより大きな次元としてポストコロニアル的な諸問題に結びつきます。つまり精神分析的な「自我」が帯びる歴史性/政治性が、ジョイスとウルフの読解を通じて、鮮明に浮上してくる極めて刺激的な論考になっています。またこの問題系において「エクリチュール」と「享楽」という精神分析的な視点が歴史化・政治化される現場を目にすることができるでしょう。ディスカサントの中山徹さんはスラヴォイ・ジジェクあるいはジュアン・コプチェクなどの優れた翻訳者でもあり、当日は英語圏のラカン派精神分析が文学・文化研究において発揮し得る批評的なポテンシャル――これは日本の英文学研究の苦手分野ではないでしょうか?!――の一端が明らかになるでしょう。なおご紹介するまでもなくマッカネル教授はジジェク、コプチェクと並び英語圏におけるラカン派の理論家として代表的な存在です。