踊りと踊り手を見分けるアホウ鳥

 エンプソン読みながら表象=代表と、レトリックの美学と政治学ということについて考えている間に、海の向こうでは「民主主義祭り」。なんだが苦々しい。

 いやつまり、先代の(まだ現職だが)大統領が敗北にまみれて退場するのはいいとして、これで何かがそれこそ"change"するのだと信じられたらそれは幸せなのだろうが、まあそんなことはあるまいということだ。それよりもオルタナティヴなき二大政党制の演出された「変革」の熱狂からはぜひ遠く離れていたい、と。エンプソンにはそうのような「勁さ」があるなあ。政治的批評は、政治的大義を声高に叫ぶためにあるのではなく、そのような政治的熱狂の中にあって、熱狂に総身をさらわれることなく(あえてこの言葉を使ってしまうなら)「真実を見抜く」ためにあるのではないか、と。それが格好つけすぎなら、「いざというときにパニクらない」ために。そのためには単なるアイロニーや言い抜けではない、ぶれない眼差しとことばを鍛える必要がある。なんて言うは易し、ですがね。しかしエンプソンにはそれがあるのではないか、という信念を強めている今日この頃。

 そのエンプソン。最終章の『アリス』論であるが、これをアガンベンの「幼年期」につなげるのはあまりにも安易なのだろうか。子供つながり、という以上の必然性をもってつなげることが可能だと思うのだが。エンプソンによれば、ドジソン(エンプソンはあくまで作者をドジソンと呼ぶ)はロマン派的子供観(「自然」としての子供)を受けつぎつつ、アリスにパストラルの道化的性格を付与することによって、そこから身を引き離そうとする。道化的性格を付与するとはすなわち、「自然」という属性をあくまで残しながらそこに「批判」をつけ加えることであって、アリスは「ベタ」かつ「メタ」、つまりアガンベンの「超越論的経験」の位相に存在することになる。

 などと断片的に思考しつつ、原稿を書くまとまった時間が取れない。今週末も大学業務と卒論添削にまみれそうだし……。