来たらざる共同体

 そろそろゲラゲラ・モードから脱して授業の準備など。じつは年末から(髪切った後から)しつこい風邪を引いており、今日は魅力的な酒席の誘いがあったものの断念。非常勤先は早くも期末試験。「授業の準備はできるだけ手っ取り早くモード」にシフトできておらず、ずいぶん時間がかかる。それを片付けたらあとは大学院ゼミの準備。

English Questions

English Questions

 これ、読むべき論文を指定し間違えた……。すまん。しかし、例の"Origins of the Present Crisis"、以前読んだときはよく分からなかったが、時代(ハロルド・ウィルソン政権)や当時のニュー・レフトの人間関係などが頭に入っていると、とたんに論文の「意図」が明確になる。

A Shrinking Island: Modernism and National Culture in England

A Shrinking Island: Modernism and National Culture in England

 アンダーソンはこれを読むための補助線だったのだが、最後のカルスタのところ。いやはや、やはりこの人、ウィリアムズが読めていない。決定的な死角がある。疎外論的なものが、モダニズムだろうがリーヴィスだろうが、はたまたカルスタだろうが広い意味で共有された支配的感情構造だったこと自体は、ほぼ当たり前のことであって、ウィリアムズはそのような感情構造の近代における生産そのものを問題にしているはずなのに、エスティは「わかる社会」を「有機体的社会」とゆるやかに並置した上でアングロセントリズムの症候としてしまう。違うだろう、と。

 はからずも、学部ゼミのために読み始めたこれが、その問題と響きあう。

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考

 「共同体の崩壊」という感情構造が近代の生産物であるというようなことは、軽く前提として出発する書物。「軽く前提とする」というのは、本書はとりあえず(というのはまだ読み始めたばかりなので……)、そのような共同体の脱構築をしてことたれりとするのではなく、近代の政治が共同体の喪失、その否定性を核としてこそ稼働していることに、哲学的なメスを入れている。それとハイデガー的な存在/存在論的なものの矛盾、内在性と超越性の問題がパラレルに仕込まれて、さらには「恍惚=脱自」がくさびとして打ちこまれる。と、ここまで来ると想起されるのはアガンベンの『幼児期と歴史―経験の破壊と歴史の起源』(とくに「脱自」について)であるし、The Coming Community (Theory Out of Bounds Series)である。うむうむ。まだ表層的ながら、こんなところ。しかし、「これってハイデガー(存在/存在者)と同じだよねえ」とか「ナンシーのいう絶対性って単独性でも同じことかしら」などと思って読み進めていると、面白いように「それはちょっと違う」という保留が入ってきて、哲学の言葉(それをいったら文学もそうだが)を読む時って、どれだけパラフレーズして、どこで止めるかの塩梅が肝だったりするよなあ、と。