隠れん坊と超越論的経験

精神史的考察 (平凡社ライブラリー)

精神史的考察 (平凡社ライブラリー)

 畏敬するK先生の口から漏れた書名。あわてて繙いてみて、第一章「或る喪失の経験──隠れん坊の精神史」にいきなりガツンとやられた。(というかまだそれしか読んでないのだが。)

 隠れん坊は、社会からの放擲と彷徨、死と蘇りを主題とする数多くのおとぎ話と同様に、社会的な死とそこへの蘇りを本質とする「成年式」もしくは通過儀礼を遊戯化・劇化したものである。というと、祭式からギリシャ悲劇への「疎外」を論じたジェイン・ハリスン流の疎外論に聞こえるかもしれない。しかし、次のような一節を読むとき、その疑念は払拭される。

おとぎ話は、かつての古典的な祭式の構造体から、其処で核心的な主題として働いていた一連の経験を受け取って自己の主題とした。そうしながら、「実在性の力説強調」を放棄して非実在的に経験の存在を示す方法を身につけたのであった。「在ったか無かったかは知らねども、在ったこととして聞かねばならぬ」という話し方がそこに生まれた。そうしてこの、経験の存在が非実在的な形で語られるというところに、おとぎ話の素晴らしい芸術性と教育力と養成力とが潜むこととなったのである。(29頁)

 おとぎ話、そして隠れん坊は疎外以前の経験の実在を、「在ったか、無かったか」という二分法で問うことなく、「在ったし、無かったともいえるけれども、とにかく在る」ものとして提示する。これは、最近何度も触れているアガンベンの超越論的経験、先日の十川幸司の前エディプス期と同じ地位のものである。

 隠れん坊では、鬼だけではなく隠れる側も、一時的に社会からの隔絶を経験し、遊戯の終了=鬼の勝利によって社会への蘇りを経験する。これは精神分析における被分析者の症状のごとく、かつてあったかもしれない人類史上の過去の「古典的な祭式」の反復である。ここでいう「反復」は正確に精神分析的な意味での反復である。原−出来事は実在したのかもしれないし、反復そのものによってつくり出されたものかもしれない。しかし確かに在る。

 論考の後半は、隠れん坊における鬼の「勝利」が、実は社会への蘇りという救済であると同時に、隠れる側の「敗北」も、同じ意味での救済であるという点から、一気に戦争の世紀である二十世紀の問題へと接続する。そこで触媒となるのはブレヒトベンヤミンブレヒトベンヤミンにとって、敗北とは「獲得された経験」であり、また勝者も敗者と相互依存的な関係において勝者たりえているのであってみれば、勝利の経験と敗北の経験は表裏一体なのである。隠れん坊における鬼とその他の関係と同様に。

 しかし二十世紀において、「『追放されてあること』はかつてのような演劇的経験ではなく、一時的な迷い子の経験でもなく、存在そのものの基礎条件となっている」(40頁)。二十世紀とは「『丸裸かの成年式』の『試煉』」の世紀なのである。

 社会がそのような試煉に耐える形式を与えてくれないなら、残された道は「自力救済」しかない。ここで藤田はおとぎ話とベンヤミンの「新しい天使」を接続する……

 とまあ、要約し始めるときりがないのでこの辺で中断しておくが、小論なのに一冊の大著を読んだようなずっしりとした感触を残す。隠れん坊で二十世紀を、もしくはさらには近代を論じてしまうこの手つき。すばらしい。今日これから出張なので、行き帰りの読書はこの続きを。

 余談ながら、隠れん坊の間主観性という本質を、隠れん坊のメタルールの消去によって見事に浮き彫りにしてみせたのはこのマンガであった。(こちらで触れました。)

ムーたち(2) (モーニング KC)

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