昨年イギリスでは公開された、ケン・ローチのThe Old Oak、ようやくイギリスからDVDを取り寄せて観ました。脚本は当然ポール・ラヴァティで、ローチ自身が最後の作品だと宣言しています。
ダラム近郊のうらぶれた元炭鉱の村(*)。そこに、難民支援を受けてあるシリア難民の家族が移り住んでくる。炭鉱と、それにともなってコミュニティが失われた貧しい村の人びとの一部は、家や物資を支援される難民に(「私は人種差別主義者じゃないけど」と言いながら、というのがあるあるで皮肉ですが)排外主義的な目を向ける。
(*途中でEasington Collieryという名前が出てきます。ダラムの東の海岸の村ですね。ちなみに、この後紹介するTJが、かつての炭鉱コミュニティについて、'A whole way of life, just gone forever'と言う場面があるのですが、これは絶対レイモンド・ウィリアムズですよね。)
*以下、少々ネタバレです。
そんな中、排外主義者に大事なカメラを壊されたシリア人一家の娘ヤーラを、村のパブThe Old Oakの主人TJが手助けし、二人の間に友情が生まれる。ヤーラはやがて、村には貧困がはびこっており、まともな食事さえできていない子供たちがいることを知って、TJにある提案をする。炭鉱時代には炭坑夫たちで賑わっていたが、その後20年間使われず、倉庫になっていたパブの部屋を利用して、無料の食事提供をするというのだ。(これは、TJの母が言っていたという'If you eat together, you stick together'という言葉に触発されたアイデア。映画を通して、「共に食べる」ことが民族を超えた連帯を意味します。)
貧困と排外主義で分断される村に、ヤーラのアイデアは連帯を回復させるのか。
これまで、そして前二作の『わたしは、ダニエル・ブレイク』『家族を想うとき』では、かなり厳しい現実を提示して観客をその中に放り出すことをしてきたローチ監督ですが、今回のこの「最後」の作品はほとんど祈りのように、連帯と希望の風景を提示してくれたのではないかと思います。
パブとはpublic house=公共の家のことですが、The Old Oakという名実ともに朽ち果てようとしているパブが、「公共の家」(それは元炭鉱の村の旧住民だけではなく、難民のための家でもある)として再生するありさまを、この映画は描こうとします。
家というのは、ケン・ローチ監督にとってはそのキャリアの始まりから重要なテーマ、モチーフでした。BBCドラマの『キャシー・カム・ホーム』に始まり、『SWEET SIXTEEN』、また『わたしは、ダニエル・ブレイク』と『家族を想うとき』でも家の物質性というものは非常に重要でした。「最後」の作品でパブ=公共の家を想像し直す試みをしたというのは本当に感慨深いものがあります。(ケン・ローチなどの作品と「家」については『不完全な社会をめぐる映画対話: 映画について語り始めるために』をご参照ください。)
残念ながらこの作品は日本で公開されておらず、したがって字幕版も存在しません。これは非常に残念なことです。クラファンなどできないかしらと思います。