ネオリベラル・フェミニストの「苦悩」?〜『インター・エイリア』(ナショナル・シアター・ライブ、2025)

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【ネタバレあり】

これは本当に見事な芝居でした。ロザムンド・パイクの鬼気迫る演技に身を委ねる2時間。ロザムンド・パイクといえば『ゴーン・ガール』(2014)でポスト・リーマンショックの苦境に陥ったポストフェミニストを演じたのが印象深かったわけですが(それについては拙著で論じました)、今回は家事子育てと専門職の両立に奮闘する女性判事を演じます。

もうこれだけで、ポストフェミニズムからネオリベラル・フェミニズムへの移行を感じさせますが、実際そのような現状認識を、マノスフィアの問題も盛りこみながらみごとに戯曲に落とし込んでいます。ネオリベフェミ問題・ミーツ・『アドレセンス』。

とてもよかったのですが、ひとつ気になるのは、この作品は「フェミニズムざまあ」的な読解または反応を引きおこしうるということでしょうか。パイク演じるジェシカは息子のハリーをフェミニストとして育てようとしたのですが、それは拒絶すべき過干渉にしかなっておらず、結局ハリーはマノスフィアに飲み込まれてしまう。フェミニスト判事としてレイプ裁判では被害者保護を進めてきたジェシカが、自らの息子が加害者になった瞬間にその原則を捨てようとしてしまう。これに対しては、悪意ある側からは「フェミざまあ」と来そうな恐れがあります。

それを避けるためには、ハリーと、父・夫のマイケルの内面、とりわけ結末では姿を消してしまうマイケルが、ハリーの決断にどのように反応しただろうかといった問題をもっと掘り下げることが必要な気がしますが、ほぼジェシカ/パイクの一人芝居的な性質の強いこの作品の構造が、それを不可能にしています。

おそらく問題は、まさにネオリベラル・フェミニズムの問題としてとらえ返されるべきだと思います。ネオリベラル・フェミニズムは再生産の問題(ワーク・ライフ・バランスの問題)を社会や集団の課題としてではなく、個人の女性による努力によって解決しようとします。本作品のジェシカの場合、ハリーの変化をジェシカはまずは自分が「悪い母」であったことに(個人の努力の問題に)還元するのですが、本当はそれは彼女の個人的な失敗ではなく、社会の失敗であり構造的な失敗なのです。そこに開いていくことができているかどうか、それが、この作品について問わなければならないことでしょう。

もう一つこの作品が問いかけ、かなり取り扱いが難しいのが、告発型フェミニズムと当事者主義の問題です。これについてはこちらに寄せた論考で部分的に論じましたし、そこで依拠した『被害と加害のフェミニズム──#MeToo以降を展望する』がとても重要だと思っています。少し引用してみると、

被害者と加害者だけが関連する「狭義の当事者性」を克服できなければ、性暴力は再び個人の問題になり、個人の苦痛あるいは不幸になるのみだ。性暴力をめぐる闘争は「誰が見ても常識的にそんな行動をしてはならない」という新たな常識を作っていく闘いでなければならなかった。だからこそ、被害者の主観的感覚は加害者中心社会で事件を判断する際に重要な参照事項であり証拠として使うべきだと、フェミニストたちは主張してきた。しかし、被害者の主観的感覚が唯一の判断基準になってはならない。被害者には当然、自身の経験を主観的に解釈する権利があるが、その経験を公論の領域に持ち込む場合には、正当化の義務を負うことになる。フェミニズムはその正当化の過程における解釈闘争に連帯する言語であった、無条件に誰かの肩を持つ言語ではない。(『被害と加害のフェミニズム』五八頁)

ということです。これをこの作品に関して言い換えると、フェミニズムの闘争は、自分の息子個人をフェミニストにすることでは実現できず、「常識」を変えていく闘争でなければならない(それができなかった結果、息子はマノスフィアに飲み込まれた)、ということになるでしょう。その失敗は、ジェシカ個人の失敗へと還元されて名なりません。それは集合的な失敗である、ということを、この作品は演劇という集団的な(この問いを突きつけられた観客も含んだ集団的な)形式によって訴えているのかもしれません。

 

冷戦の終わりとゴーイング・ネイティヴ〜『役者になったスパイ』(2026)【試写】

 1989年(最近、70年代とか80年代舞台の作品が多い?)のスイス。軍隊保持の是非に揺れ、反共的な空気が強まる中、政府が多数の市民を監視対象としていたことが明らかになったというスキャンダルを背景に、主人公の警察官ヴィクトールが反体制的だと目された劇団に、エキストラとして潜入捜査するが、監視対象のオディールと恋に落ち……という話。

 一見シリアスな政治的作品に聞こえるかもしれませんが、基調はトラジコメディでコメディ要素が結構強いです。劇団が上演するのが『十二夜』のアダプテーションであるという点については専門家にお願いするとして、個人的にはとても味わい深くて好きでした。

 というかこの物語、『ハートブルー』ですよね(え、知らない? ごめんなさい)。もしくは別の系譜では『ダンス・ウィズ・ウルブズ』や『ラスト・オブ・モヒカンモヒカン族の最後)』あたりも想起する。

 今挙げた3本の映画(最後のは19世紀小説が原作ですが)、全部1990年代初頭なんですよね。いや、私のようなおじさんの青春時代の映画を並べられても困るかもですが、それとは別に、『役者になったスパイ』の舞台が1989年であることを考えると、これらの「ゴーイングネイティヴ」もの、つまり原住民や犯罪グループに他者として入りこんでそのままコミュニティの一部になってしまうという物語が、冷戦の終わりに頻発したのは何か意味があるのだろうか、とか思ったのでした。

 それは妄想として、この映画、とにかく各ショットの構図と、なによりも色彩がすばらしすぎて、話が頭に入ってこないレベルです。「ああ、このショットの色と構図、ええわあ」というのが結構連続する。いいのか悪いのか。衣装もいちいちすばらしい。全部、見てて気持ちいいんですよね。いいのか悪いのか。私はこういうの好きですけど。1月23日公開です。

大義なき戦争の現実〜『ウォーフェア 戦地最前線』(2026)【試写】

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 これは絶対に体調を整えていかないとと思い、体調を整えて試写に。予想通り、すさまじい映像体験でした。

 前作『シビル・ウォー』は鳴り物入りだったものの、正直どうにも微妙な後味を残したのに対して、これはもう戦場のリアリティを、「そんなのはどこまで突き詰めても再現されたリアリティですよ」、というすぐに出てきそうな批判なんか知らんとばかりに徹底的に追求することに淫する映画で、その突抜け感たるや。

 興味深かった点はいくつもありますが、重要なのは作品内にヒロイックな存在はいないし、また銃撃戦でバタバタと人が死んでいくような、戦争映画で見てきたようなことは実際の戦闘では起きないということです。戦場で死は突然にやってくるけれども、意外となかなか訪れない。

 もちろんイラク戦争を、米軍の精鋭ネイビー・シールズの部隊の視点から描くという時点で、政治的な観点からの評価を避けられない映画なわけですが、この映画は全編にわたって戦場そのものをスクリーンに、劇場に再現することのみに全振りし、そこに価値づけや評価を何もせず、ごろんとそこに放り出すということをしています。

 ですから、価値づけ・評価はすべて観客に委ねられていると考えていいのではないでしょうか。そして私は一観客として、この映画は反戦映画だと主張したいです。軽々しく戦争を待望する人びとには、この映画を見て戦場とは何かを知ってほしいと思うのです。イラク戦争大義なき戦争だった。そのことを十分理解した上でこれは見ていただきたい。確かにこの作品は「没入」がすべての映画ですが、この戦闘がどのような広い状況の中に埋めこまれたものであるかには、没入しながらも、やはり思いをはせていただきたいと思うのです。

 これを言った上で、体調を整えた上で観に行っていただきたい作品です。

 なお、個人的にはアレックス・ガーランドの最高傑作は『エクス・マキナ』で、それはまだ揺らぎません!

前作の「完璧さ」を痛感させる続編〜『ズートピア2』(2025)

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 公開初日に行くのは、前作からの期待感が高かったからに他ならないのですが、これはアクションや笑いのエンターテインメントとしてはすごく秀逸であることは否定しないものの、前作の完成度が際立つ結果になったな、という感想です。【以下ネタバレ】

 前作については拙著『新しい声を聞くぼくたち』で論じたのですが、ジュディのビルドゥングスロマンは女性であることの限界よりも人種(種族)の限界を乗り越えるビルドゥングスロマンであり、その個人的な成長とズートピアの社会における多文化主義・多民族共生という政治的テーマがちゃんと一致していたわけです。

 それを乗り越えたところに出現するポスト人種的メリトクラシー(@Jo Littler)がこの作品の終着点でした。

 それと比較して、今回はジュディとニックのバディ関係が個人的な主題で、それに対して政治的主題はズートピアそのものの起源に隠蔽されたセトラー・コロニアリズムということになります。

 この個人のテーマと政治のテーマが、前作のようには一致していません。そのためにいくつかの不具合が出ていたように感じました。

 ひとつはセラピーの場面。二人のバディ関係が抱える問題は、いきなりセラピーで全部言語化されてしまう。そのために、問題への気づきに必然性と緊迫性がなくなるということがあるのですが、それよりもおそらく、上記のような不一致の粉飾のためにセラピーが必要とされてしまっているという言い方の方がいいかもしれません。

 そしてもう一つは、個人の物語のクライマックスと政治(社会)の物語のクライマックスが文字通りにずれてしまっていることです。その二つが同時に解決されない。その点で、強さに欠ける作品になってしまったと思います。たぶん一般的には満足度高そうなので、このような評価はあまり納得を得られないかもしれませんが。

 それにしても、続編では作品世界の起源に隠蔽されたセトラー・コロニアリズムを問題にするのって、『アナ雪2』の反復なわけですが、これはもちろん、原住民の土地を奪って「建国」したアメリカの後ろめたさの物語であり(それは『ポカホンタス』ではもちろん解消されるどころか強められた)、それを反省することで現在のリベラルな多文化主義体制を確定・肯定する作業になるわけですが、問題はその作業が第二期トランプ政権という文脈で行われていることでしょう。移民排斥が反グローバリゼーションの感情の簒奪のもとに行われている現在、このセトラー・コロニアリズムへの反省(「本来」の土地の、「本来」の人たちへの回復の物語)は、思わぬ形で移民排斥の論理と合流しうるのではないかという気もしてしまうのです。何なら自分たちが植民地化されているという修正主義的な感情への合流ですね。杞憂ならいいのですが。

 しかし、魚、食べましたね。

 

*追記

 前作ほどの「噛み合い」を感じなかった理由がもう一つ分かったのですが、それは「動物」の比喩ですね。前作では草食動物と肉食動物を人種の比喩として使っていて、それは説得力があったのだけど、今回はは虫類が原住民の比喩(というか原住民)となっているて、別に、は虫類は原住民を象徴する必然性がないということ。

*追記2

 そうそう、すごく気になったのは、ジュディが真実を突き止めるための糸口になるのがニブルズのポッドキャストで、なんだか陰謀論が相対化されていないことも非常にモヤりました。

*追記3

 そういえば、ベルウェザー元副市長が入っているガラス張りの監獄、『羊たちの沈黙』へのオマージュなんですかね。だとしたら、拙著では『羊たちの沈黙』をこの作品の重要な先行テクストとして指摘したので、興味深い。

 とはいえ、『2』でのベルウェザーの軽い扱いは、この作品が政治問題と個人物語を切りはなしてしまったことと深く関係するでしょう。そもそも、完璧とは言いましたが、『1』の結末はズートピアの社会分断という政治的問題をベルウェザーの個人的野心の問題に切りつめてしまったんですよね。それでもジュディの成長とそれが有機的にからみあったのだけど。ベルウェザー一人を捕まえても解決しない問題が残っているはずなのだけど、『2』ではそのようなものはまったく描かれず。

現代アメリカのシニシズム〜『ワン・バトル・アフター・アナザー』(2025)/『エディントンへようこそ』(試写、2025)

続けて観た2本の映画、どうもアメリカ(映画)の進む方向に暗雲を示唆しているような気がして、ちょっと気が重い。

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1本目は評判のよい(よい評判しか聞かない)『ワン・バトル・アフター・アナザー』。確かに映画的なつくりとか、何もできないディカプリオ、それと対照的なチェイス・インフィニティとかすばらしいんですが、一見非常に政治的に見えつつ、シニシズムに満ちた映画である点が非常に気になりました。ディカプリオ演じるパット/ボブが属する「フレンチ75」は、極左行動グループですが、その政治性は現在の米国の文化戦争における左派のそれ(BLM的なそれ)のデフォルメと言っていいでしょうか。そのことは、ライバルとなるロックジョー警部(ショーン・ペン演)が白人至上主義者であることによって強調されます。この対立においては、確かにロックジョーの白人至上主義は戯画化され、批判されているように見えますが、それに対抗するフレンチ75の政治性も同じくらいに戯画化されているように思いました。これは、60年代的なカウンターカルチャーにシニカルな目を向ける原作のトマス・ピンチョン『ヴァインランド』の精神を受け継いでいると言っていいでしょう。

そして、多くの人が評価するパット/ボブの「何もできない父親」っぷりも実のところ、弱者化する父親像をめぐるメロドラマ的な構造(これはもう数十年の歴史を持っています)にはまっているわけで。まあ、結末はそれを切断しているという読みもできますが、最終的には彼はパット/ボブというよりはディカプリオになっているというか、ある種の男性性と父性は保存する物語というか、何にせよどうしようもない白人至上主義者のロックジョーと対立するというよりは補完的なかたちになっていると思います。どっちもアホだよね、というシニシズムが、そこには流れています。そう考えると、娘のウィラは、そのようなアホな父親たちを超越しているというよりは、「娼婦」に対立する「聖母」的な役割になっていて、ミソジニーの構造そのものなんじゃないかと思えてもくる。

文化戦争における右も左もくだらない、という感情は、アリ・アスターの新作『エディントンへようこそ』(試写)では、もっと明示的に発露されます。

www.youtube.comこちらは、コロナ禍でロックダウン中の町エディントンを舞台に、反マスク派(イーロン・マスクじゃないですよ)の保安官ジョー(ホアキン・フェニックス)とデータセンター誘致で町を救おうとする現市長のテッド(ペドロ・パスカル)の対立が、陰謀論SNSでのフェイクニュースなども巻きこんで異常な事態に……という話なのですが、その中で表象されるBLM運動の戯画化はもう見られたものではありません。公開前なのでこのような断言もアレですし、詳しくは書けませんが……。

どうも、白人至上主義や陰謀論はクソなんだけれでも、BLM運動が代表するような現代アメリカの左派文化運動も同じくらいクソである、といったシニシズムが、これら2本の映画には通底していて、ああ、これが今のアメリカの「気分」なのかと暗い気分になったのでした。それはおそらく、明示的なシニシズムの表明に向かわないとしても、一般的には「分断を憂う」といった態度へと回収されるような態度かもしれません。

映画と政治の距離感はこうあるべきなのだという反論も聞こえる気がしますが、それこそが落とし穴だろうと。その裏返しは、距離感のない映画は美的にも優れていないということになるわけですから。

ドラゴンの解放?〜『ヒックとドラゴン』(2025)

www.youtube.comオリジナルには心奪われて、著書で(ファーストだけ)絶賛の調子で書いた作品ですので当然にIMAXで観に行くわけですが、平日とはいえ公開直後の夕方であのガラガラぶりは本当に寂しい。きっと、私のように原作も観ていて実写も当然に観るマイノリティと、これを「新作」としてわざわざ見に来るマイノリティの集いだったのでしょう。だとしたら、寂しい。

それはともかく、原作はよく知っているので、人種やジェンダーの観点から「アップデート」されてるなあとか冷静に見てしまうのですが、やはりドラゴンという違なる生物を理解することで最も効果的に戦う、というか事態に対処することとか、ヒックとトゥース(どうしても「ヒカップ」と「トゥースレス」と書きたくなるんですが)との根本的依存関係とか、熱くなってしまいました。すばらしい。

ただ、今回はプロット構成のどうしようもないとも思える欠点が改めて気になりました。というのは、【以下ネタバレ】人間とドラゴンの対立関係の解消を人間社会全体に浸透させるためには、レッド・デスという人間もドラゴンも超えた絶対悪が必要とされるのですが、レッド・デスに恐怖政治的な支配をされているあのドラゴンの生態系って、どう説明のできるものなんでしょうね。あれは、封建制か絶対主義的な支配体制のある種の未開社会からドラゴンを解放するという、ちょっと帝国主義的な話になってないか、というのが気になったのでした。重要なのはやなりヒックとトゥースとの関係、根本的な相互依存関係ですが、ドラゴンを「ペット」と呼んじゃっていいのかは、少しモヤモヤしたわけです。

老獪さと新しい男性性〜『F1Ⓡ エフワン』(2025)

www.youtube.com体調の問題などで劇場に行けなかった時期に重なってしまい、配信でようやく。

ブラッド・ピット作品は常に男性性案件に触れてくるのだけど、これも完全に、傲慢な言い方をすると拙著↓を教科書にして作ったのかと思うくらいのものでした。

 

第3章「助力者と多文化主義」と第9章「老害と依存とケア、そしてクィアな老後の奪還」の合わせ技ですね。

まず、物語の全体は、負け犬となって従属的になったソニーブラッド・ピット)の尊厳回復の物語です。ここはジョゼフ・コシンスキー監督の前作『トップガン マーヴェリック』と同じですが、大きな違いはソニーが実力ゴリ押しするのではなく、それこそ「老獪さ」を武器にするということでしょう。

この老獪さというのは、現代的な(ポストフォーディズム的な)能力主義の観点からは、むしろ非常に「新しい」能力かもしれません。臨機応変さや柔軟性を中心とするという意味で。ここでは、加齢が現代的/ポストフォーディズム的な「能力」へと反転されるという魔法が使われています。老獪さこそが(現代の能力主義に適応した)新しい男性性の要素となっているのです。

そして重要なのは、その老獪さによってソニーは自分が勝とうとするわけではなく、チームメイトの新人ドライバーのジョシュアをサポートしてチームを勝たせるという点でしょう。

ここでは、上記の第3章で論じた「男性性の保存戦略」が使われています。それは、『ダイ・ハード』以来の、多文化主義による男性性保存戦略です。『ダイ・ハード』では、ポストフェミニズム時代に従属した男性である主人公のジョンが、黒人警官アルとのバディ関係によってある種の道徳的な優越性を獲得し、多文化主義的な主体として従属化を脱するのですが(『ダイ・ハード3』は同じ図式を中心に据えて再利用しようとして失敗するのですが)、私は『ダイ・ハード』を嚆矢とする「異人種/異種族バディもの」というジャンルが存在するのではないかと思ってきました(こちらを参照)。

『F1Ⓡ』はまさにそのジャンルの最新版ということになります。ただし【以下ネタバレ】、黒人のドライバーであるジョシュアをチャンピオンにするための「産婆」たろうとしたソニーは結局(少しご都合主義的な展開で)そうはならず、むしろジョシュアが産婆になるわけですが。結局はこの映画は「老いゆく/滅びゆく白人男性」の想像的な恢復に落ち着きます。その意味では「異人種バディもの」の伝統をみごとに受け継いだ映画だということになります。