ケン・ローチ「最後」の作品〜The Old Oak (2023)

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昨年イギリスでは公開された、ケン・ローチのThe Old Oak、ようやくイギリスからDVDを取り寄せて観ました。脚本は当然ポール・ラヴァティで、ローチ自身が最後の作品だと宣言しています。

ダラム近郊のうらぶれた元炭鉱の村(*)。そこに、難民支援を受けてあるシリア難民の家族が移り住んでくる。炭鉱と、それにともなってコミュニティが失われた貧しい村の人びとの一部は、家や物資を支援される難民に(「私は人種差別主義者じゃないけど」と言いながら、というのがあるあるで皮肉ですが)排外主義的な目を向ける。

(*途中でEasington Collieryという名前が出てきます。ダラムの東の海岸の村ですね。ちなみに、この後紹介するTJが、かつての炭鉱コミュニティについて、'A whole way of life, just gone forever'と言う場面があるのですが、これは絶対レイモンド・ウィリアムズですよね。)

*以下、少々ネタバレです。

そんな中、排外主義者に大事なカメラを壊されたシリア人一家の娘ヤーラを、村のパブThe Old Oakの主人TJが手助けし、二人の間に友情が生まれる。ヤーラはやがて、村には貧困がはびこっており、まともな食事さえできていない子供たちがいることを知って、TJにある提案をする。炭鉱時代には炭坑夫たちで賑わっていたが、その後20年間使われず、倉庫になっていたパブの部屋を利用して、無料の食事提供をするというのだ。(これは、TJの母が言っていたという'If you eat together, you stick together'という言葉に触発されたアイデア。映画を通して、「共に食べる」ことが民族を超えた連帯を意味します。)

貧困と排外主義で分断される村に、ヤーラのアイデアは連帯を回復させるのか。

これまで、そして前二作の『わたしは、ダニエル・ブレイク』『家族を想うとき』では、かなり厳しい現実を提示して観客をその中に放り出すことをしてきたローチ監督ですが、今回のこの「最後」の作品はほとんど祈りのように、連帯と希望の風景を提示してくれたのではないかと思います。

パブとはpublic house=公共の家のことですが、The Old Oakという名実ともに朽ち果てようとしているパブが、「公共の家」(それは元炭鉱の村の旧住民だけではなく、難民のための家でもある)として再生するありさまを、この映画は描こうとします。

家というのは、ケン・ローチ監督にとってはそのキャリアの始まりから重要なテーマ、モチーフでした。BBCドラマの『キャシー・カム・ホーム』に始まり、『SWEET SIXTEEN』、また『わたしは、ダニエル・ブレイク』と『家族を想うとき』でも家の物質性というものは非常に重要でした。「最後」の作品でパブ=公共の家を想像し直す試みをしたというのは本当に感慨深いものがあります。(ケン・ローチなどの作品と「家」については『不完全な社会をめぐる映画対話: 映画について語り始めるために』をご参照ください。)

残念ながらこの作品は日本で公開されておらず、したがって字幕版も存在しません。これは非常に残念なことです。クラファンなどできないかしらと思います。

『グローバル・ベイビー・ファクトリー』@座・高円寺2(劇団印象-indian elephant-)

こちらのブログもなんとも三日坊主状態ですが、映画観たり演劇観たり本読んだりはしているんですが書く時間がなく。なんだか馬力がございません。謙遜?ではなく歳を感じます。

本日は劇団印象-indian elephant-のリーディング公演『グローバル・ベイビー・ファクトリー』@座・高円寺2。

代理母出産というかなりの目配りとバランス感が必要な主題ですが、それが見事にクリアされていたと思います。

私自身、『増補 戦う姫、働く少女 (ちくま文庫 こ-58-1)』で少し論じたのですが、現在の資本主義とそを背景とするポストフェミニズム状況は、「再生産労働」(家事労働、ケア労働、出産……)の再定位を迫っていて、代理母出産の問題はそれをみごとに集約していると思っています。

『グローバル・ベイビー・ファクトリー』は、代理母出産の問題がポストフェミニズム的な問題であることに非常に意識的で、「すべてを持つ」かに見えるポストフェミニズム的な主人公(名前が「河野」でドキドキしましたが)が、突き当たった限界を代理母出産という「搾取」であるかもしれないものに訴えることで乗り越えようとするという図式になっています。

無い物ねだりをすれば、インドにおける代理母出産の政府による推進(それはすでにまた方向転換しているはずですが)といった文脈も、少し入れておいた方がいいかなあと思いましたが、安易な連帯や解決を拒むというのはしかるべき方向性だと感じました。

余談ながらリーディング公演という形式、案外台詞に集中できていいかもしれません。その分役者さんはごまかしがきかなくて大変かもですが。

失敗をしない美学〜『インサイド・ヘッド2』(2024)

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今学期はレポート科目が多くて地獄の採点で8月の最初の一週間が飛び、ダメージ回復している間にもう8月も後半……。観てそのままになっている映画が溜まってます。

まずは『インサイド・ヘッド2』。ピクサー/ディズニーの久々?のヒット作ということで期待して観ましたが、確かにこれは隙のない出来。

これは『インサイド・ヘッド』にも通ずる話ですが、この作品のそもそものポイントは、本来はつかみ所のない、自分という曖昧模糊とした存在の中のさらに曖昧模糊とししていて、混沌のうちにまざりあった「感情」というものを擬人化の手法によって劇化することです。Inside Outという原題はそれを表現している。本来は分節化されていない内面(inside)をキャラクターという形で表出させる(out)。

これって、文学の基本的な役割であるとともに、その役割の半面でしかないわけです。ここで言っている文学の役割というのは、分節化されていない現実に言葉を与える(分節化する)ということですが、もう一面の重要な役割は、言葉を与えられてしまったものをもう一度壊していくという役割です。フレドリック・ジェイムソン(『政治的無意識』)で言えば、包摂の戦略と美学化の戦略ですね。

これを人間の心理というものに当てはめていくと、とたんにきな臭いことになってきます。というかそもそも、映画自体が自我心理学そのものなんですよね。今回もsense of selfだとかstream of consciousnessといった概念をどんどん視覚化していく。視覚化するというのは、言語化よりも強度があって、「表象の危険性」を孕むんだな、と改めて感じます。

前作に引きつづきこのシリーズを観ていてハラハラしてしまうのは、結局ライリーはある完成された「自己」を手に入れて終わるんだろうな、という点。そして、完成された自己を手に入れるためには不完全な自分も自分として受け容れる的なプロットがどうせ用意されているんだろうな、という予想はまず裏切られない点。

そういう部分と、「失敗してはならない」というある種のネオリベ的なメリトクラシーの感情構造が、かなりの親和性を持って手を結んでしまっている作品じゃないのかという疑念は、どうも拭えないでいるわけです。I'm not good enoughというanxietyを乗り越える物語。

だとすれば重要になるのは、上記の「文学の基本的な役割」の後半の部分でしょう。ライリーの自己の形成の物語において、失敗したもの、抑圧されたもの、排除されたものの地位は?ということです。文学の一つ目の役割に自我心理学が対応するなら、この二つ目には精神分析が対応すると言ってもいいでしょう。これについては、ポストクレジットのアレでちゃんと目くばせされたといえばそうなのですが。

ただ、最近翻訳の出たジャック・ハルバースタムの『失敗のクィアアート』が「ピクサーボルト」と名づけたようなものをこの作品が体現しているかと言えば、むしろその正反対であるような感覚がぬぐえないところです。

宅急便の精神〜『キャスト・アウェイ』(2000)

(たぶん)観てなかったやつです。

現代版『ロビンソン・クルーソー』ですが、この映画を観ていると、『ロビンソン・クルーソー』を現代に移し替えたら、そのジャンルは小説ではなく(また映画でもなく)リアリティ番組になるのかなあと思えてきました。

単にサバイバルものだから、ということではなく、『ロビンソン・クルーソー』がマックス・ウェーバーが言うようにプロテスタントの倫理で正当化された資本主義の精神の小説だとすれば、リアリティ番組というのは後期資本主義の精神そのものであるという意味で(これについては拙著『はたらく物語』の『プラダを着た悪魔』論を参照)。

キャスト・アウェイ』の場合、孤島の開発ということはあまり重要ではなく、重要になるのは主人公チャックの元々の職業。FedExの生産性管理のトラブルシューターとして世界を飛び回る彼の乗った飛行機が太平洋の真ん中で墜落し、ロビンソン生活に入る。

そこで鍵になるのが、島に打ち上げられたFedExの荷物。文明から隔絶された孤島で、その荷物はサバイバルに役立つかも知れないものが入っている可能性のある唯一のものなのだけど、彼は職業倫理からそれを開けようとしない。

ただ、生活がせっぱ詰まって開けてしまう(ただ、エンジェルの羽根がパッケージに描かれた荷物だけはなんとなく開けない。それが最後に鍵になります)。

ところが、出てくるのは無人島での生活の役には立たないようなものばかり。せいぜい、アイススケートシューズが実質的な役に立つだけ。バレーボールも彼の孤独を癒やすための相棒にはなるのだけど、ここで示されているのは、チャックが日頃必死で送っていた宅急便の荷物は生活の実際的な役には立たないようなものばかりで、彼の仕事はある種のブルシット・ジョブだったというのが皮肉を込めて示されます。また、これによって宅急便(は、商標か。宅配便)が後期資本主義的な業種であることも鋭敏に示しています。

おそらく、物語は、そのブルシット・ジョブをエッセンシャル・ジョブに変える(道徳的に正当化する)ことを要請している。そこで効いてくるのが彼がかろうじて職業倫理を保って開けないパッケージ。そしてそのパッケージが、全てを失ったかに見える結末で彼の一縷の希望となる。宅急便は彼自身にとってのエッセンシャル・ジョブになる。

という構図は分かったのですが、これが現代の資本主義に適合した主体を作り出すリアリティ番組の精神の映画なら(いや、そうである必要は別にないんですけど)、もう少しチャックの精神的成長みたいなものを示してもらえたらよかったのだけど、彼は最初から結構善人で、精神的にあまり変化があるとは言えないのが残念なところ。

『シビル・ウォー アメリカ最後の日』(2024)【試写】

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気合いの入ったIMAX(池袋グランドシネマサンシャインの一番巨大なスクリーン)での試写会。うん、そりゃ、IMAX必須です。

ということで私のオールタイムベスト映画の一つ『エクス・マキナ』以来、新作が楽しみなアレックス・ガーランドが(でも前作はもうひとつでしたけど)A24最大予算で作ったというのだから、もう期待しかありませんでした。

19の州が連邦から離脱したアメリカ。カリフォルニア州テキサス州からなる「西部勢力」の攻勢でワシントンD.C.の陥落は間近。そんな中、ニューヨークの有名な報道写真家のリー・スミスと、彼女に憧れる写真家の卵ジェシーらが、陥落前にワシントンD.C.に乗り込んで大統領のインタビュー取材をしようと出発する……

という概要から私が予想していた映画とはかなりかけ離れていて、いい意味で裏切られました。というのも、政治的なアレゴリーや教訓がないだけでなく、登場人物の感情の流れや倫理性といった点でも、よくある飲み込みやすい表現は何も出てこない、と言ったら言い過ぎかもしれませんが、「感動」はもちろん、安易な道徳的解決は与えられないと言えます。

それ以前に例えば、カリフォルニア州テキサス州の連合とか一番あり得ない組み合わせがなぜ生じたのかといったことを俯瞰的な視点から説明するといったことは一切しません。言わば登場人物たちの「虫の視点」で物語は進んでいきます。それが独特のリアリティを生んでいるというわけ。リアリティといえば、決して最初からアポカリプティックな戦争の風景が描かれるわけではなく、日常の中にヌルリと戦争が入りこんで来るような表現がなんとも不気味だったりします。

そういう映画なので、「正義と悪」は存在しません。戦争に乗じて非人道的な行為を行っている連中はいたりするわけですが、ポイントとしてはジャーナリストの主人公たちが政治的大義のために取材をしているというより、ほぼ戦争に参加することのスリルがやみつきになっている感さえあるという点。

音楽の使用もそれを後押しします。非常に緊張感が高まった場面がある度に、それをあざ笑うかのような場違いな音楽が流れ、場を弛緩させ、その道徳的ないようをキャンセルしていく感じ。(この辺り、『地獄の黙示録』を彷彿とさせます。)

そして、そのような視点人物たちに導かれてワシントンD.C.の激戦へと巻きこまれた観客に、道徳的判断をする余地は残されていません。あとはヤバいくらいに没入的な戦闘シーンへと巻きこまれていく。

このように言ったからといって、この映画が道徳的に問題があると言いたいわけではまったくありません。むしろ、二人の女性報道写真家(ベテランと卵)を中心に据え、記録することへの道徳を超えた衝動を描くこの映画は、ポストトゥルースの時代のジャーナリズムの根底にあるべきほとんど非人間的でさえある衝動を描こうとしているようにも思えます。10月4日公開です。刮目せよ、です。

NHS不条理劇をこえて〜『BIRTHDAY』@新宿シアタートップス

www.honda-geki.comジョー・ペンホールの戯曲を小田島創志さんが翻訳。結構直前に内容を知って、これは観なきゃと足を運びました。

むちゃ面白かったです。不妊になってしまった妻リサに代わって男性妊娠をした夫エド。ところが帝王切開のために入院したNHS管理下の病院はとてつもなく非効率で、やる気も技術もない看護師、人手不足で姿を見せない医師に二人は翻弄される……。

NHSの非効率を描くことは、イギリス社会ではかなりの「あるある」で、それがすでに笑い所なわけですが、日本で上演するのはその点ですでにハンデを負っているように感じます。またこまかなユーモアもいかにもイギリス的で、その点でも翻訳劇、ダークコメディとして上演するのは結構ハードルが高いかもしれません。

でも、そのようなハンデを乗り越えて、かなり面白い劇になっていました。それは訳者、演出、役者さんたちの努力によるもの、と言うしかないでしょう。最後まで飽きさせず、没入させ、笑わせるお芝居でした。急遽行ってよかった。

ところで、NHSの不効率批判というのは諸刃の剣というか、NHSそのものの批判になってしまう=新自由主義的になってしまうことは警戒すべきではあると思います。例えばリンジー・アンダーソンの『ブリタニア・ホスピタル』は、NHSをパロディしつつも、私立(プライヴェート)医療の問題点も同時に指摘するものになっていました。

ただこの芝居はNHSの揶揄だけではなく、「男性妊娠」というモチーフを導入することで、社会をより多角的に見つめることに成功しています。男性妊娠といえば日本でも『ヒヤマケンタロウの妊娠』という傑作がありますが、男性が妊娠するという意匠によって、この社会がいかに男性に「生きやすく」できているかを照らし出すという点では共通していました。

あとはエドジョイス(黒人の看護師)に対する差別の問題もあるのですが、それはジョイス役を山崎静代さん(しずちゃん)がやったことで薄められたのか、それとも異化効果で際立ったのか、微妙なところでした。これはちょっと原作を読んで確認したいなと感じています。

メリトクラシーの崩壊〜『ルックバック』(2024)

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藤本タツキ原作、押山清高監督で、1時間ほどの中編作品。公開後すぐに予約したのに、その日に人身事故で電車が止まり、チケットを無駄にしたのでした。おかげで、評判の入場者特典もパンフレットも手に入らず。

【以下、ネタバレあります】

で、素晴らしい作品でした。原作に忠実で、なおかつアニメ映画に翻案することにちゃんと意味があると感じられる作品。

意味があるというのは、まずはどこまでも美しい背景美術と効果。実写のぎりぎり手前のような空気、湿度、温度を感じさせる環境づくりが素晴らしいのですが、それは単に美しいのではなく、劇中で京本が憧れて描こうとした背景美術の理想的な形になっているわけです。京本に将来があれば、彼女がこれを描いたのかもしれない……。そのように、劇とちゃんと連続し、響きあう美なわけです。これは、単に美しさのための美しさを追求したアニメ背景美術とは一線を画しているのではないでしょうか。

物語ですが、かなり忠実なので原作にそのまま当てはまることですが、実のところクラシックなビルドゥングスロマンになっています。それも、ある種の「裏切りの物語」としてのビルドゥングスロマン。これは20世紀前半的な階級上昇ビルドゥングスロマンの特徴ですが、自分の生まれた地域やコミュニティ、階級からの離脱の物語ですね。そのコミュニティに何らかの愛着があれば、それは裏切りの物語になる。

『ルックバック』の場合はそれは藤野と京本との関係で表現されます。藤野は山形の田舎から漫画家となって東京へと移動する。この、地理的移動と階級移動が重なる、メリトクラシービルドゥングスロマンは20世紀の定番です。この作品では、藤野が京本を、引きこもっていた部屋から引っ張り出してそのビルドウングスロマンの道へと誘うという筋がそれにからみ合わされる。

この筋の導入によって、藤野の「裏切り」の物語は典型的なそれよりは少々複雑なものになります。その裏切りと後悔は、京本を20世紀的ビルドゥングスロマンメリトクラシー的移動へと巻きこんでしまったことへの後悔になるからです。

京本の突然の死は現代において20世紀的(社会民主主義メリトクラシー的)ビルドゥングスロマンの物語が無効化していることの「症状」かもしれません。もしくは、新自由主義メリトクラシーにおいて藤野が「勝ち組」になることへの疚しさの物語と読むことができる。つまり、藤野の裏切りの感覚は、現代のハイパーメリトクラシーにおける裏切りの感覚なのではないかと。

そういう意味で、クラシックと言いましたが実際はとても現代的な物語だと思います。

で、一つ減点するなら、必要のないパンチラを入れたので減点。ほんと、なんでそういうことするかなあ……。あれは、藤野のうきうきとした心情の表現である、とかで正当化されるものではないと思います。カメラアングルが低く、そのカメラアングルは藤野が選んだものではない。喜びの表現としてパンツ見せなきゃいけないってどういうことですか? いらんやろそれ。