依存頼り

 『Web英語青年』のキーワード連載、今月は山口菜穂子さんによる「依存」。これまた新自由主義下でもっとも評判の悪い言葉のひとつといえましょうか。依存の否定という、抜け出すことは非常に難しい感情構造にどう向き合うか。これは、これまで書いた「成長」「自由」「社会」と骨がらみの問題であり、「大キーワード」です。

 ところで今日は、日吉で行われた日本英文学会の関東支部大会に参加。シンポを楽しみにしていたのだが、残念ながらそれに重なる形で編集委員会があって中座。最初と最後を断片的に聞いたところでは、「アソシエーション」がキーワードであろうと思えた。今日はその話は出なかったのかもしれないが、アソシエーションは、19世紀イギリスまで戻ると、基本的には労働者階級文化であった。*1それが、戦間期(おそらく特に30年代)にひとつの転回を迎える。一言で言えば、それはアソシエーションの非労働者階級化、もしくは個人化である。アソシエーションの個人化とは矛盾するように聞こえるかもしれないが、これについての基本文献はレイモンド・ウィリアムズの「ブルームズベリー・フラクション」であろう。個人のアソシエーションという新しい感情構造を、ウィリアムズはブルームズベリー・グループに見る。それは一種の前衛であり、戦後イングランドではそれが「自然化」されたのだと。半分くらい聴くことのできた近藤さんの話、ホガートの問題もそこであろう。

 後の立ち話で同僚のMさんから、それ(アソシエーションの非労働者階級化)と30年代人民戦線におけるトロツキー排除が重なるという話を聞き、なるほどと思う。トロツキーは人民戦線の、さまざまな政治的立場を包含するアソシエーショニズムを、労働者階級の中心性をなくしてしまうものとして批判した。(で、トロツキーといえば先日のウルフ協会のシンポにもつながるわけ。)

 あとは、高田英和「エドワード朝期における少年冒険小説の(不)可能性」を拝聴。ご本人と発表内容をよく知っているというひいき目を差し引いても、立派な研究になりつつあると感心しました。本人に言ったが、定説的な歴史観をひっくり返しているのだから、ちゃんとそこはひっくり返していると言った方がいいだろうし、あと「イノセンス」の扱いが、いっぽうでは帝国縮小(維持)の象徴とされつつ、もういっぽうではジェイムソンの帝国主義論的な全体性の挫折の症候(つまり不可視の植民地)とされているのは一貫していない、もしくは整理が足りないと思った。なんにせよ、いい形で論文化されたものを読みたい。

*1:これ、ちょっと修正が必要かもしれない。19世紀にはすでにアソシエーションのブルジョワ化、もしくはアソシエーションの言説と実践を通じた労働者階級の資本主義への取りこみが起こっていたし(たとえばそれがよく分かるのが成人教育)、あとワイルドなんかもアソシエーションを言っていた。何にせよ、現代から19世紀のアソシエーションを見ると、国家が負うべき事柄を国家がやってくれないのでアソシエーションで相互扶助しているように「見える」ということが、私たちの問題を映し出しているということが重要である。これはコミュニティにもほぼそのまま当てはまる。