個人

 『Web英語青年』のキーワード連載、鈴木英明さんによる「個人」です。私(たち)がウィリアムズを媒介にして考えてきたことを、ちゃんと日本の思想の系譜でとらえており、刮目いたしました。ハイライトは福田恆存石川啄木の対決であろうか。余裕があるゆえに弄ぶことのできる個人(文学)と社会(政治)の疎外論と、疎外が徹底しているゆえに、個と公が(ここはちょっと踏み込むと)否応もなく一致してしまうような状況から生じる批評。

 これは新自由主義的な現在にとって重要な対立であろう。そこで「個人的/わたし的」の区分が効いてくる。つねに地なき浮遊する図としての「わたし的」を基本としてきた日本は、新自由主義的倫理に親和性が高い、というより、新自由主義は基本的に日本発ではないかと思われる節もある(トヨティズムとかね)。そこでは「公」とはすなわち市場であり、「個」は否応もなく「公」としての市場に直接に接続されてしまう。啄木はそこで、社会(個人と市場とを媒介・調整・調停するものとしての文学)の再興ではなく、みずからの身体をもってそのような安定的区分を壊乱するものとしての文学=批評を求める。無数の「わたし的」たちの氾濫=反乱。「わたし的」たちのアソシエーション。(やはりウィリアムズ(「ブルームズベリー・フラクション」)を考えてしまう。)