BI下の人間の魂

 ワイルドのシンポまであと一週間。ヤバい。

 とりあえず、thinking aloudということで、ここに書いてこれまでのところのプロジェクトを整理しとこう。「社会主義下の人間の魂」を扱おうと思っているのだが、どうやら主題は「リベラリズム」になりそう。ということで当然、この本が枕になります。(いや、本当の枕は「ベーシック・インカム下の人間の魂」という話にしようかとも思っているのだが、この跳躍はかなり……。)

帝国の文化とリベラル・イングランド―戦間期イギリスのモダニティ

帝国の文化とリベラル・イングランド―戦間期イギリスのモダニティ

 大筋としては、この本で描かれる、リベラリズムの生き残り、つまりニュー・リベラリズムから戦後福祉国家へといたる、国家社会主義ならぬ国家資本主義をささえるリベラリズムの系譜の、ラディカルな批判をワイルドはあらかじめしていた、ということ。(つまり、褒めます。)

 ところが、ワイルドをリベラリズムの「本道」に包摂しようとしたのがこの本。

Sincerity and Authenticity (The Charles Eliot Norton Lectures)

Sincerity and Authenticity (The Charles Eliot Norton Lectures)

 これがまた一筋縄ではいかない本だが、ワイルドの後にマルクスの『経哲草稿』をもってきて、さらにラスキンをもってきて、これらがすべて疎外論的な感情の構造のうちにある、という形で包摂してしまう。*1

 ではワイルド的リベラリズムの系譜を引き直すことはできるか。その「リベラリズムの別の系譜」を示すのに、この著作が使えるかしら、と考え中。

奴隷の国家

奴隷の国家

 べロックの批判対象はまさに同時代の自由党ニュー・リベラリズムで、この著作はニュー・リベラリズムが奴隷の国家(=戦後福祉国家)を生み出そうとしていることを痛烈に批判する。べロックはそのオルタナティヴをちゃんと示していないが、国家については財産の分配だけを粛々と行う「分配国家」を是としている。これと、ワイルドによる私的所有の廃棄と「個人主義」の主張は、当時(といっても時代はずれるけど)のイデオロギー的配置からすれば、かなり親和性が高い。

 で、落とし所だが、やっぱり考えてみたいのは、ベーシック・インカム下で昂進するとされる個人主義というのは、上記の「リベラリズムの本道」におけるリベラル個人主義とは似て非なるものであり、BIはむしろ個人主義をラディカルに押し進めることによってあらたな「アソシエーション」を生み出すのではないか、という問題。そこで最後の隠し玉(ってここで書いちゃったら隠し玉じゃなくなるけど)は、小野二郎によるワイルド論。「社会主義下……」における「個人主義」からアソシエーショニズムを引き出すという離れ業を、トリリングと同時代にしている。

 とまあ、これらの断片がちゃんとつながるかどうかは謎ですが、メモ。

*1:補足。トリリングがそのままそうだ、とはいうわけではないが、要するに問題は、現在「リベラル個人主義」といったときに、ファシズム社会主義の経験のために、そこには「ファシズムではない」「社会主義ではない」という限定が加えられてしまうのだ。だから、BIが議論されるときに、一方では「社会主義だ」、もういっぽうでは「ネオリベ個人主義と親和的だ」というような相反する反応が出てきてしまう。その陳述における社会主義は「ファシズム」の置き換えでしかないし、個人主義は競争的個人主義のことでしかない。ワイルドの時代にはファシズムの経験も「実際に存在した社会主義」の経験もなかったのであり、それらの経験を経た現在の視点からワイルドの「個人主義」を受け取ったときに生じる死角、これが問題なのである。