健忘症

 自分の過去のブログを見ていてびっくり。この前のワイルド協会でのテーマにかかわる、こんな記述があって、「この人、分かってるな〜」と思ったら自分で書いたことだった。ジョック・ヤング『排除社会』について、それがなぜ「ポスト**」の語りになっているか、つまり非歴史的な語りになっているかについてのコメントです。ほんの半年前くらい(笑)。

 具体的にはヤングの場合は、福祉国家体制と後期近代=排除社会(もしくは過剰包摂社会)との関係ということになる。当日言ったことだけど、その点でやはり「福祉社会」に対する視座が甘いような気がする。特に、ヤングは個人主義を自由市場が生むということを言っちゃってるが、「自由な個人」という観念は、純粋な自由市場からは生まれないだろう。つまり、ホッブズ的な「万人の万人に対する闘争」というのは、個人主義ではない。ある意味での集団主義である。たとえそこまでは言えないとしても、そのようなアトム化と個人「主義」は違う。で、当日言ったように、現在の個人主義を準備したのは福祉国家体制ではないかと思っている。つまり、市場から個人を守る中間的なものとしての国家があまりにもうまく機能したために、それ以外の中間的なもの(コミュニティなど)が消滅してしまい、メリトクラシー的な理念のもとで、すくなくとも理念上は階級・人種・ジェンダーといったヒエラルキーを超えて人は「自由」だと思われるようになった。しかしそれは、国家の庇護のもとでの話であって、いざネオリベで国家が退場させられると、残されたのは「むき出しの自由な個人」だった、という。その意味で福祉国家体制はネオリベの系譜として見いだされるという、そういった視点に欠ければ欠けるほど、上記のような(非歴史的だという)印象を受けることになってしまう。

 また忘れないように引用。今の言葉で言えば、ヤングもまた、「国家か市場か」の二者択一的な思考に陥ってしまっているということだ。さらには、戦後福祉国家の「前」として、世紀転換期のニュー・リベラリズムが個人「主義」の系譜として見いだされたと。で、また忘れるんだろうな。でも、記述は忘れながらも問題設定自体は忘れてないんだからいいか。