いまさら反省会

 ペースが落ちてますが、先般の新自由主義研究会のまとめもしていなかったので。いややはり打てば響くという感じで反応いただき、うれしゅうございました。時々、自分がとんでもない洞察を得ているような気分になる時もあれば、同じ話なのにまったくの勘違いであるような気もしてきたり、浮き沈み激しいわけですが、この主題についてはやはり確信を持って進めようと。

 去年のシンポからアップデートしたのは、いくつかの文献の参照以外には、「否定的系譜学」と「肯定的系譜学」という思いつき。前者はある系譜がいかにして現在の視点から不可視にされてきたかということをたどるならば、後者はその不可視にされてきた系譜をポジティヴに再構築するという手続きである。これらを両方やらなければいけない。今回の話でいうと、ラディカルなリベラリズムの系譜は20世紀の経験(ファシズム共産主義福祉国家新自由主義……)によって不可視にされてきたのだが、否定的系譜学はそのような系譜の抹消をあとづける(今回でいうとトリリング)。後者については、今回は、ヒレア・ベロックからさらには小野二郎に、そういった経験による制限からこぼれおちる肯定的な系譜を見いだそうということでした。

 これって、気づいてみれば、この前の金曜日にゼミで読んだジェイムソンの「メタコメンタリー」でも似たことが述べられている。ジェイムソンはリクールの否定的解釈学と肯定的解釈学の話をしているが、要するにそれを両方やって初めてマルクス主義批評は完成、という。『政治的無意識』でも同じ議論は導入されていて、それが最終的に「イデオロギーユートピア」の議論につながる。イデオロギーをあばく否定的解釈学と、同時に文化的テクストにユートピア的契機を見る肯定的解釈学。ただこれは、同じテクストにそれが共存するのを見るべきだということなので、私の二種類の系譜学もちょっと甘くて、ひとつのテクストに同時に両者を行わなければならないのだろう。

 そんなこんなで一月も終わり。教科書企画も先が見えてきた(?)感じ。この春休みはほとんど翻訳に費やされるか。