雑食系中年

 計6回とお伝えしていた歓迎会、実は7回であることが判明。今日はその第5回目なのだがその前に英語一コマとゼミ二つ。英語は選択の上級英語なので、容赦なくナショナリズム論のアンソロジーを。予想に反して定員一杯。(ナショナリズムというテーマは人気が高いらしい。ただ、「やっぱナショナリズムだぜ、イエイ」という学生がいたりする可能性も否定できず。)最初はとりあえず訳読させて実力のほどを見たが、ほぼすらすら訳してくる。次からは要約報告で行こうという計画、これならなんの問題もなさそう。

 学部ゼミのドブレは、どう読むかについて悩む。「コミュニケーション」を否定し、透明なコミュニケーションモデルからは排除される伝達の失敗、挫折に力点があるのは確かなのだが、一方で思想の流通はその内容ではなく媒体によって決定されるという主張に表れているようなシニカルな側面もあり、この人の独特の経歴や、記号論から構造主義のプレゼンスが強烈であることと、そしてそれに対して介入した一世代上のブルデューとの距離などを考慮していかないと読めないような気がする。

 大学院のゼミはジェイムソンの帝国主義論を読む。以前は最後のジョイスのところがよく分からなかった記憶があるが、あそこは、帝国の心象地理という指示対象を表象する*1、というあくまでモダンなプロジェクトである『ハワーズ・エンド』に対して、『ユリシーズ』は空間の表象をめざす対象−表象パラダイムではなくて、『オデュッセイア』という、言語構築物を盗用する「ポストモダン」なものであること、さらには古代の帝国の「言語的地図」である『オデュッセイア』の盗用を帝国の周縁であるアイルランドで行うことの、二重三重のひねりについての話だったのだ、と得心(って、分かりにくいですね。すみません)。集まった面々はエドワード朝〜モダニズムと関心が固まっているので、これを読むこととする。さてどうなるか。

A Shrinking Island: Modernism and National Culture in England

A Shrinking Island: Modernism and National Culture in England

 しかしこう並べてみると一日のうちにあれこれやってるなあ。まあ、注文されればなんでも出しますぜ。できないもの以外は。

 歓迎会兼N井さんの受賞祝賀会。そこで、同僚のうちにこのブログを熟読されている向きがあることを知り、驚愕する(ふりをする)。先日「心がささくれだって」とか書いたことについてご心配いただいたりして、恐縮至極。

*1:「悠久」というメタファーで想像的に解決するしかない時点でそれは失敗しているのだが。