メモ:ジェイムソンとウィリアムズ

 紀要の論文を、締め切り一日過ぎてようやく完成。すんません。で、それにかまけているうちに他の仕事が……。すみません、すみません。(切腹。)

 ところで、ゼミで『政治的無意識』を読んでいると、やはり私の作品読解の基本ってここなんだなあとつくづく。そこから進歩してないとも言うが。それはともかく、先週は第二章の前半。前回読んだ大学院生のころは、ここでなぜロマンスが持ちあげられるのか、全然分かってなかったと思う。驚くべきか、驚くべきではないのか、ウィリアムズを通過してようやく見えてきた水準が確実にある。

 ジェイムソンがここでロマンスを問題にし、ノースロップ・フライのロマンス観を批判するのは、フライがロマンスにモダンな「登場人物」観をアナクロに適用してしまうからである。ブルジョワ個人主義の無意識的適用といってもいいが。ロマンスの「登場人物」は、近代的「登場人物」ではない。それは運命(神)のエージェントであり、ひとつの行為主(=アクタン)なのである。だから一方でロマンスは、人間主体を否定して人物を構造の中の要素とみなす構造主義と親和性があるのだが、ジェイムソンはまさにそのような意味での構造主義と格闘したわけである。上記のような「登場人物」観はもう一方でルカーチの「タイプ」論とも親和性があるのだが、それは「社会主義リアリズム路線」として冷戦によって抑圧された。ジェイムソンはいっぽうで(ポスト)構造主義による「主体の死」の簒奪、もういっぽうで冷戦による社会主義的な集団主義の抑圧、この両者と格闘したわけである。そして、単なるポストモダニズムではない「主体の死」を、あらたな集団性に向けた「主体の死」を構想しようとするわけだ。(それは全体主義!と言われるわけだけど。)

 これとウィリアムズの議論はかなり近い。『イングランド小説』や『田舎と都会』における、個人と社会の分離の問題、そして共通文化という理念。この辺を比較検討するプロセスが、来るべき私の○論のためには必要なんだなあ……。

 論文一本書くとさすがに虚脱するのだが、そんな暇なし。でも明日は英語のセンセイの日。