精神分析を受ける主人公

 ワールドカップ、元サッカー少年としては観戦し、最後はいたく感動したのだが、その後なんとも違和感を感じている。あれだけたたかれまくった岡田監督と選手たち、「勝てば官軍」的な出迎えに、腹は立たないのか? 岡田監督は、マラドーナみたいに、「メディア、謝れ!」と怒っていいんじゃないのか?

 などと考えつつ、大学院ゼミでは、先週はこれを読み、

The Golden Notebook (Harper Perennial Modern Classi)

The Golden Notebook (Harper Perennial Modern Classi)

 今週はこれのレッシング章を読む。

Cities of Affluence And Anger: A Literary Geography of Modern Englishness

Cities of Affluence And Anger: A Literary Geography of Modern Englishness

 やはり決定的な部分で不満が残ったものの、レッシングの重要性が浮き彫りになった感じ。

 重要性というのは、この間ここでも書いている、50年代における文化と政治の分離の問題を考えるときに、『黄金のノート』は重要ということである。

 カリニーの結論に近い部分をまとめると、『黄金のノート』は「逆転された民族誌」によってメトロポリタンな英国性を探求する(それをカリニーは『闇の奥』との比較で示す)が、class politicsもcolonial fiction(のパロディーもしくはパスティーシュ)も、その探求に満足な答えを与えることはない。特に、階級政治に関しては(共産党との関係もあって)、階級が政治ではなく文化の問題となってしまうという。カリニーはそれを、現代(ジェイムソンのいうポストモダン/後期資本主義)の系譜とする。

 とまあ、ここまでのまとめに盛り込んだ内容については、深く同意。ただ問題は、レッシングがそのようにナショナル・カルチャーを求めたとして、それはそのポストモダニズム的手法(カリニーがレッシングとジェイムソンをつなぐ部分)=グローバル・カルチャー?と、いかなる共存関係にあったのか、という点と、カリニーはおそらくジェイムソンを誤読しており、ジェイムソンのいうcognitive mappingの危機=ポストモダンを、ショートカットさせているという点。ほかの著作も読めば、ジェイムソンはポストモダンの一側面としてcoginitive mappingの危機を指摘してはいても、cognitive mappingの危機がすべてポストモダンだとは言っていないことがわかる(帝国主義論など)。しかしカリニーはジェイムソンの議論非歴史的にとらえてしまっている模様。

 それはともかく、上記のまとめに関連して、先週読んだ時、『黄金のノート』の主人公アンナが、精神分析を受けているという事実が気になったのだが、これは文化と政治の分離、個人と社会の分離ということで説明がつく。アンナの苦境は政治・経済的な解決をもたない。それは文化的に解決されるか、精神分析的に解決されるしかないわけだ。どっちも失敗して、アンナは結局核家族の規範に折れてしまうわけだけど。

 しかし、主人公が精神分析を受ける小説というのは、これ以前にあったのだろうか。まあ、文字どおりの精神分析に限らなければ、似たようなことが起こっている小説はあるのだろうが。