挫折について

 帰省中に、大学に出た時点で実家に残してきた荷物の整理をした。

 親とはおそろしいもので、文字通りすべてが取ってある。小学生のころに担任の先生からもらったプチ表彰状のようなものや、子供の頃に書いた書、描いた絵、撮った写真、フルートの発表会のプログラム、などなど……。

 それらが私にとって何かといえば、過去の挫折の蓄積である。いや、そういった物事に否定的感情が付随しているというわけではないし、客観的に見れば挫折という名のつくようなものではないのだけれども、過去になしたこと、なさなかったことはすべて、「挫折」としか呼びようのないものとして、私の目の前に現れる。人生が一回りした今、その挫折たちに対しては、不思議とあたたかい感情しか湧かない。

 などと思いながら今日読み始めた(といっても書き込みがあるのでどうやら再読)これが、ずしりと来る。

Why War?: Psychoanalysis, Politics and the Return to Melanie Klein (Bucknell Lectures in Literary Theory)

Why War?: Psychoanalysis, Politics and the Return to Melanie Klein (Bucknell Lectures in Literary Theory)

 本のタイトルにもなっている第一章は、戦間期精神分析と「戦争」問題をめぐるもので、その内容についてはもっと良いコメンテーターがいるだろうが、ずしりと来たのは結論部。結論として提示される「挫折の倫理(ethics of failure)」である。戦争は挫折への恐れのために起きる、というとあまりにも唐突ではあるが、挫折への恐れというのは、絶対的なもの、真実へと到達できないことに対する「忍耐のなさ」だと言いかえればこの洞察の奥行きは表現できるだろうか。さらに言いかえれば、戦争は絶対的なものを捏造しないと起こすことができないし、絶対的なものを捏造してしまったらもうその時点で避けようもなくそこへ吸い寄せられていく「解決法」になってしまうような何かである。現に今も、「挫折の倫理」に欠けた戦争が遂行されていて一体どこに向かうのかもわからない状態ではないか。人生の半分は、いやそれどころか人生の殆どは挫折でできています、ということをみんなが悟れば世の中はもっと平和になるだろうに。ちょっとした新年の祈りです。

 ところで、過去の遺物整理のゆくえだが、必要最小限のものは除いて「捨てていいよ」と私が言うと、母は少し寂しそうに、個人情報の入っているものを古紙回収には出せないからと、中身をチェックし始め、私の名前や写真の入っている新聞の切り抜きなどを見つけては「これはいいの?」と尋ねる。それらの「挫折たち」はすでに私になっているのだから、本当はいらないのだが、すべて受けとったことは言うまでもない。