私の文学宣言

 殺人事件が起きる度にマスメディアは「動機」に注目し、理解不能な被疑者が「動機」を語るのをかたずをのんで見守るという塩梅になるのだが、被疑者が「なるほど」と思わせる動機を開口一番に語る、ということはまずない。当然である。殺人のような極端な例ではなく、日常的な行動を考えたとき、そのすべてについての「動機」をあなたは語れますか、またはもう少し極端に「人生の選択」とでもいうべき選択をした際の動機を30字以内にまとめられますか、といわれてできる人はほとんどおるまい。もちろん、その選択について事後的・反復的に言い訳=物語を作っている場合を除けば。

 マスメディアが15秒以内(数字は適当)で報道できる「動機」を求めることと、司法制度は地続きである。周知の通り、刑事事件においては「動機」が量刑を左右するから。発作的な犯罪より計画的な犯罪の方が罪が重いというようなことであればよく知られているだろう。もちろん、裁判ではマスメディアのように動機を15秒以内にまとめる必要はなく、膨大な事実と言葉を重ねることが可能だが、それは量的な差異であって質的な差異ではない。「動機のない犯罪を許容することが根源的に不可能である」という点では同じ、なのである。動機がないように見える犯罪が出現したときには「精神鑑定」なり、犯人の「生い立ち」、はたまた「現代社会の病理」という物語が登場する。

 (ところで、裁判員制度はその量的差異さえも減少させようとする制度である。話はそれるが、マスメディアは構造的に裁判員制度を批判できない。なぜかというに、裁判員制度を利用する裁判は世間的な注目を浴びる類の事件を裁くということで、裁判員が公判の現場以外で事件に関する情報をまったく得ずに公判に向かう、ということは考えにくい。情報を得る先は当然マスメディアである。マスメディア上に出る情報や見解は、「これを裁判員も見ている」という自意識により、さらなる注目をあびることになる。マスメディアはますます裁判の延長となる。裁判員制度はメディアの情報価値を飛躍的に高めてくれる制度なのである。ゆえに批判できない。)

 わたしが学部時代に法学部にいながら文学へと転向したのは、司法制度がそのように、人間の行動のすべてが言語化可能であり伝達可能である(べきである)、という大前提になり立っていると、少なくともその時には理解したからであった。(←と、自分の選択の「動機」を言語化する私。)

 ゆえにわたしは、文学/理論とは基本的に表象不可能なものをめぐるものであって、ひっくりかえせば表象不可能なものをあつかうものすなわち文学/理論だと思っている。「ひっくりかえせば」というのは譲歩ではなく、決定的な踏み込みであるのだが。かといって、表象可能性・数値化可能性・記述可能性を大前提=終着点とする学問や言説に関心がないかといえばそうではない。そういった言説がその極限において挫折する瞬間には、表象不可能性がもっとも危機的な形であらわになるであろうから。

 などと何を突然マニフェストしちゃってるのかといえば、ある程度以上複雑なことを喋った後にちょっと基本的なところへ帰ってみたくなったのでありました。