モ/モ研

 昨日は告知していたモダニズム/モダニティ研究会。20名くらい集まったでしょうか。予想以上の盛況。

 秦邦生「"Affective Turn"をマッピングする」は近年の批評における「情動論的転回」を文字通りマッピングした後、J. M. CoetzeeのDisgraceを「情動」をキーワードに読む。なぜ今Affective Turnか、という点については、コメントしたように、(1)人間の学としての人文学の窮状(2)「ポスト」ポスト構造主義の、「言語の内でも外でもないもの」への志向、というところがあろうかと思う。その意味でレイモンド・ウィリアムズが再評価されたり、ベンヤミンの名前が出てくるのは当然の流れだろう。(細見和之本のアクチュアリティを再確認。)そこで、質問したけど答えてもらえなかった"futurity"の問題は非常に重要であろうと直感する。最後のベンヤミンの引用にある、「未知の家族」という他者に対する倫理であり、さらに言えばブレヒトの「後に生まれる者たちへ」の倫理である。そのような倫理は個人的なものではありえず、集団的(秦さんの用語では公共的)なものたらざるをえない。

 ひとつ注文があるとすれば、(本人には言ったが、)たとえ「とりあえず」であろうとも「理論」と「応用」という言葉遣いはしないべきだと思う。そういう無意味な分断を学び捨てることがこの研究会の趣旨であろうし。

 脇田裕正「私は公爵である。彼は精神分析研究家である。そして我々は英文学者である──「日本」の「英文学」から見えること」は「英文学者」大槻憲二と岩倉具栄の紹介。これもコメントしたが、日本近代を問い直すような興味深い素材になりえる気がするのだが、そのような意義づけと資料の取捨選択をしっかりしてもらいたいと思った。例えば、これはかつて齋藤一さんの本についてもコメントしたが、英文学におけるマルクス主義(的教養主義)の存在をどう位置づけるか。30年代を考える上では決定的に重要なピースだろうと思う。

 とまあ、ちょっと辛口になっちゃいましたが、この研究会の可能性と未来を思ってのことです。

 夜は飲みながら同人誌企画の打ち合わせなど。走り出す体勢はほぼ整った模様。