出会い損ねとしての歴史

 知的興奮状態の維持された三日間が終わり、本日帰京。

22日

 シンポジウム「批評としての経験/経験としての批評──レイモンド・ウィリアムズとの出会い」@日本女子大学

 こう言ってはなんだが、予想外の盛況で、40人強のオーディエンスを得ることができた。

 これまでいくつかやってきたシンポジウムの中でも出色のものだったと自画自賛します。やはり、集団的に研究会を続けてきたことが大きいし、コメンテーターid:hidexiさんのすばらしい「キャベジン注入」のおかげもある。何といっても、私自身シンポジウムを通して手にとってわかるほどの「意識の発展」を経験できたこと。以下、忘れないうちにメモ。

 私が不十分に考察したウィリアムズの「支配的/残滓的/勃興的」は、やはり支配的なものよりも残滓的/勃興的なものの方が重要だと思うのだが、残滓的なものが支配的なものに取り込まれつつも勃興的なものへの触媒となっていくようなダイナミクスをどう記述できるかという主題に関して、id:melaniekさんが質疑応答で話していたが時間の関係で応答できなかった、「シンギュラーな『失敗』のせめぎ合いとしての歴史」という指摘、これがかなり重要な問題提起だろう。ウィリアムズの営為は、現在の支配的なもののうちに、排除された「失敗の痕跡」を見つけ出し分節化し、そこから勃興的なもの(もしくは前−勃興的なもの)を見いだそうということなのだろう。見つけ出すとはいっても、実のところ歴史とは本来、すべて「シンギュラーな失敗たち」からなり立っているとも言える。歴史に「成功」(もしくは「成就」)はない。文字面だけからこれを敗北主義などと捉えたら大間違い。これは、未来を覗くためのアクションとして構想されているのであり、「ひどく明るい」話なのである。

 このように整理すると、私のSF/ユートピア論ならびにVOLUNTEERS論の、修正・発展の見通しが立つ。まず、私が「経験のざわめき」というメタファーに訴えたものについては、まさに上記の「失敗の痕跡」と言いかえうる。主人公ルイスの過去は左翼としての挫折であるので、一見この点はわかりやすそうだが、反政府組織the Volunteersの側につくというルイスの決断は、決して「過去の失敗の贖罪」というチープなナラティヴに回収し得ない、という点が重要である。小説の組み立て上そうなっているということもあるが、原理上は、「失敗の痕跡」はid:takashimuraさんが指摘するように「回帰」するものではなく、「現前」するものなのである。そして「失敗の痕跡」=残滓的なものの現前に突き動かされるルイスがいたる、「複眼視」と私が呼んだもの、これは「シンギュラーな失敗」を(ちょっと微妙な言いまわしになるが)他の「シンギュラーな失敗たち」=歴史のもとへと差し向けることなのである。そしてそれはまさに(ベンヤミン的ではなく)ブレヒト的な「選択」もしくは「ほとんど」の領域を覗き込むことなのだ。分かりにくくてすみません。メモなので。

 シンポをみごとにオーガナイズしてくださったK端先生、運営にあたってくださった院生のみなさん、そして聴きに来てくださったみなさん、ありがとうございました。

23・24日

 イギリス文化史教科書戦後版の準備会。テクストはNever Had It So Good: A History of Britain from Suez to the BeatlesWhite Heat 1964-1970

 個別的にはいろいろあるが、前日のシンポジウムを経たおかげで、Sandbrookの記述法のポジティヴな側面がくっきりと理解できた。

 以前も書いたが、Sandbrookの基本的手法は、「60年代って普通はこうだと思われてるけど、(世論調査などを見ても)ふつうの人はそうでもなかったよ」という形の「脱神話化」である。読み方によっては、意地悪なだけなのだが、そうではなく、この手法は歴史の「変わったことと変わらなかったこと」をあぶり出す上で有効なのだ。ウィリアムズの言葉で言い直せば、Sandbrookは残滓的なものと勃興的なものとの交渉のダイナミズムを描こうとしている、ということになる。

 戦後イギリス史を物語るときに、サッチャリズムへと向かうナラティヴをどう紡ぐかは最大の難関であり要点になるが、これを単純な「敗北と成就の物語」にしないことがぜひとも必要であろう。残滓的なもののざわめきをいかにして聞き取るか。

 二泊して睡眠時間は二日とも4時間程度。月末に締切が二つなので休むまもなく走り続けねばならないが、今日だけはもう休みます。