インファンティア再び

幼児期と歴史―経験の破壊と歴史の起源

幼児期と歴史―経験の破壊と歴史の起源

 「もうダメ!」と思って酔っぱらいつつ、なぜかこの本の重要な箇所を一心不乱にタイプし始める。

 で、できあがったのはこれ。

人間のインファンティア〔言語活動をもたない状態〕として、経験は人間的なものと言語的なものとのあいだのたんなる差異であるにすぎない。人間はつねにすでに語る存在ではないということ、人間は言語活動をもたない存在であったし、いまなおそうであるということ、これが経験ということなのだ。しかし、この意味において人間のインファンティアが存在するということ、人間的なものと言語的なものとのあいだには差異が存在するということ、このことは他の出来事と同等の人間史の範囲内におけるひとつの出来事ではない。あるいは、ホモ・サピエンスという種を同定させているさまざまな性格のあいだのひとつの性格ではない。じっさいにも、インファンティアはなによりも言語活動に影響をおよぼして、それを構成し、それを本質的なしかたで条件づける。それというのも、そのようなインファンティアが存在するという事実、すなわち、言語活動の超越論的限界としての経験が存在するという事実は、言語活動がそれ自体、全体性および真理として立ち現れることを排除するからである。もし経験がなかったなら、もし人間のインファンティアが存在しなかったなら、たしかに言語は「ゲーム」であるだろう。そして、その真理は論理的-文法的規則にしたがったその正しい使用法と符合するだろう。しかし、経験は存在するのであり、人間のインファンティアは存在していて、それを剥奪するものが言語活動の主体なのである。であってみれば、そのときには、言語活動はそこにおいて経験が真理に転化することにならざるをえない場所として立てられることになる。すなわち、言語活動のなかにインファンティアが原限界として現在していることが、言語活動を真理の場所として構成することによって明らかになるのである。……経験とは、あらゆる人間がインファンティアをもつという事実によってうち立てるミュステーリオン(mystérion)〔神秘〕のことである。この神秘は沈黙および神秘的な語りえないことの誓いではない。そうではなくて、人間を強いて、言葉と真理へと向かわせる誓いである。こうして、インファンティアが言語活動を真理へと差し向けるように、言語活動は真理を経験の宛先として構成する。だから、真理はなにか言語活動の内部において定義されるようなものではない。が、しかしまた、それの外にあって、あるひとつの事実状態、あるいはこれと言語活動の「一致」として定義されるようなものでもない。インファンティアと真理と言語活動とは、見たような意味においての本源的かつ超越論的歴史的な関係のなかにあって、たがいに制約しあい構成しあっているのである。(89-90頁)

 タイプして気づいたのだが、ラカンじゃないですか、これ。(って、遅い?)最後のインファンティア/真理/言語活動の三つ組み、そのままリアル/イマジナリー/シンボリックに置きかえられる。そしてインファンティア=経験であるなら、エンプソン的「レトリックの脱構築」が開く経験の地平を「リアル」としてとらえ返すなんて芸当も可能かも知れない。なんてここで書いたことは実行されない場合が多いですが。しかしアガンベン、短く引用すると意が汲み尽くせないので、困るなあ。なんてやってないで明日の朝も早いんだからさっさと寝ろ、と。