第二の思考

 私、あとからじわじわと考えてしまうのだが、忘れないうちに、考えたことをもう少し。

 エンプソンはイデオロギーという言葉を使わないが(というのはもちろん当時の文脈でイデオロギーと言ったら現在のマルクス主義批評における意味とは全く違うものになってしまうから)、エンプソンが「プロレタリア文学」で論じている「神話」とは、以前書いたとおり、非常に洗練されたイデオロギー論における「イデオロギー」とほぼ同じ重みをもって使われている。

 「非常に洗練されたイデオロギー論」というとアルチュセールがまず想起されるのだろうが、要は、エンプソンは、神話に対する歴史の存在など信じていない。神話に対ししては対抗神話しかない。

 というとどうしようもないポストモダニズムの議論になりかねないが、そうではなく、問題は、人間が何らかの形での神話に頼らねば生きていけない、そうしないと歴史に耐えられないという単純な事実であろう。そのような意味での神話を提供してくれるのが文学(的なもの)なわけだが、エンプソンの問題とは、そのような文学に総身を預けてしまう一歩手前でいかに踏みとどまるかという問題である気がする。「文学まであと一歩」に留まるという、困難極まりない行為こそが批評の役割であって、それを遂行するために採用されたエンプソンのアイロニーは決してシニカルではない。対して、ド・マンのように「残されるのは悲しき忍耐の時だけだろう──つまり、歴史だけだろう」と言ってしまうのは、実は非常にシニカルなのではないかと思ってしまうのだ。この辺、hidexiさんやmelaniekさんとの対話、または私の勉強がもっと必要だろう。

 私、ここ二晩くらい酔っぱらいながら「次に来るのはヒューマニズム批評ですよ」などと口走ってどん引きされていたような気がするが、おそらくエンプソンにとって上記の意味での「批評」と「人間であること/人間に踏みとどまること」とは同義だったのだろう、そういう意味でヒューマニズムがこれから問題になると考えたのだ。