可知の共同体

 業界的には残酷な日々。残酷な週末の前、先週はKO大学で一回きりの講義。うーむ、やはりというか詰め込みすぎた。あと、『ハワーズ・エンド』は仕方ないとしても『日の名残り』の映画版を観たことのある学生が一人もいないとは。でもなあ、1993年の映画だから、今の学生にとってはもう物心つく前の映画なんだよな。当然といえば当然か。

 残酷な週末のあいだ、なんとか空き時間を利用して読めたのは、「新自由主義読書会」で読んで前から気になっていた、

Powers of Freedom: Reframing Political Thought

Powers of Freedom: Reframing Political Thought

これの'Community'の章。新自由主義において、いかに「コミュニティをつうじたガヴァメント」が行われているか。正確には、以前読んだ'Advanced Liberalism'の章と同じく、新自由主義(イギリスの場合サッチャー)と先進リベラリズム(同じくブレア)が区別され、サッチャーは保守的・因習的な共同体の権威を復興させようとしたのだけれども、それは福祉国家戦略によってすでになきものにされており(つまり、福祉国家による「生政治」によって、規律=訓練的権力は弱体化しているので)、失敗。そこで先進リベラリズム(ブレア、第三の道)は、市場と国家とのあいだを埋める「第三の空間」(第三セクターがその象徴)としてのあらたな共同体を構想・構築する。それは、権威を中心とする共同体ではなく、自己知もふくめた知によって成立する共同体であり、エキスパートによって設計・運営が可能な共同体となる。(つまり、ウィリアムズがいうのとはまったく違う意味で「可知の共同体knowable community」なわけ。*1

 このように、新自由主義と共同体が矛盾なく存在するどころか、共同体が「統治の手段」となるというのは、いまとなってはまあ当然のことというか、ようするに国家が投げ出し、市場が手を出さない福祉の領域について、「自己責任」でなんとかする共同体の立ち上げということだ。

 あと重要なのは、アイデンティティ・ポリティックス、「承認」の政治学が(これは次回のフレイザーにも関わるが)、まさにそのような新自由主義下の「共同体」の倫理、コミュニタリアニズムの「鏡像」となっているという指摘。統治、ガヴァメンタリティが「自由を与えることによる統治」であるなら、そして共同体(とそれへの所属=アイデンティティ)が、そのような自由の中での「ふるまいの管理(conduct of conduct)」の道具となるなら、リベラルなアイデンティティ・ポリティックスがそのような倫理に回収されるというのは当然の成り行きである。ただしローズは最後に(とってつけたように)ナンシーとアガンベンの「来るべき共同体」がそのような「回収」を避け得る可能性を示唆するが。

 完璧に、ただいま考え中のトピックに「使える」。いただきます。

 そのトピック、つまり「ウィリアムズからフーコーへ」について、これに書いてあるよ、というご指摘をいただく。いや、読んでなかったわけではないのに(とはいえ熟読+通読はしてなかったが)まったく視界に入ってこなかったのはいかなる症候か。熟読いたします。

シニフィアンのかたち―一九六七年から歴史の終わりまで

シニフィアンのかたち―一九六七年から歴史の終わりまで

*1:「まったく違う」というのはミスリーディングかもしれない。「可知の共同体」はお互いが顔見知り、という水準もあるが、さらに共同体の全体性を把握可能であるということでもあるのだから、その点においては「第三の空間」としてのネオリベ的共同体も、形式的には同じ。ただ、その「可知性」というものが、ネオリベにおいてはあくまで「統治の手段」であることが違う。さらには、自由に敷衍すると、ネオリベ的共同体の可知性とは「実証可能性」に近い。つまり、empiricalに可知であるということだが、ここでウィリアムズ(『キーワード辞典』)におけるexperienceについての考察が重要になる。すなわち、experienceは語源的にexperimentの意味もあるという議論だが、「非ネオリベ的共同体の可知性」があるとして、それはそのように二重の意味でempirical=experientialなのだろう。つまり、その際の経験とは「経験によって手にとって分かる」という意味ではなく、experimentとしての経験、未知の新たなるものとの出会いと、それによる既知のものの変更の連続としての経験なのである。ここまで書いて、ローズ自身、イントロダクションでドゥルーズを引きながら、この本が、上記の意味でempiricalであると言っているのを思い出す。これはほぼ「系譜学的」と言い換えることもできよう。系譜学とはあらたな過去の系譜との出会い、引きなおされた系譜との出会いというexperience=experimentにほかならず、したがって過去とはつねにあたらしいものなのである。ウィリアムズの「残滓的なもの」とはこのあらたに見出された過去のことであるというのはこれまで強調してきたところだ。