残滓を笑うな

 英語ひとつとゼミふたつ。学部ゼミでは学生の要望により、これを。

 うーん、いろいろと、不満。なんというか、議論がいい加減なのである。いや、もちろんアカデミックでソリッドなものを期待しはしないし、まさに「いい加減さ」を売りにしているわけだが、本人たちはアカデミックな文脈で(大学で)これをやっているわけだから、最低限のところは押さえていってほしいなあ、と。具体的には例えば、議論全体が明らかに(知ってか知らずか)キットラーをベースにしているのに、キットラーのキの字もなし。ラカンのラの字くらいはあるものの。それも抜きで、「これは直感に基づいた教壇パフォーマンスだぜ、いえい!」とやられても、しらけるばかり。

 それは百歩譲って措くとしても、劇場のような儀式性の高いメディア様式から、パーソナル/ポータブル・シアターへの移行が何か決定的な切断をもたらしているというようなナラティヴ、これには積極的に反対である。メディア環境の転換速度が加速度的に速まっているのは確かだけれども、その転換はウィリアムズの言う残滓的なもの/支配的なもの/勃興的なもののダイナミクスをともなっているはずである。そこを捨象して新たなメディアの出現に切断ばかりを見出す「メディア学者/批評家」は、「支配的なもの」とのべったりの共犯関係にあるわけで、それを批評とは呼べまい。

 そう、キーワードは「残滓的なもの」である。上記の演劇→テレビetc.についても、テレビ鑑賞という新たなハビトゥスは劇場の残滓をともなっていた、というより、それが劇場で劇を見るというハビトゥスから抜け出しきるのに(抜け出しきったとして)、かなりの時間がかかっているはずである。インターネットや携帯プレイヤーなどの「新たな」メディアにしてもしかり。そこから残滓的なものを抑圧し、切断を求める批評は、「資本主義的」以外のなにものでもない。

 というと、私が最近言っている「ポストフォーディズム」もそういうナラティヴじゃないの?と言われそうなので付け足しておくと、私はポストフォーディズムがいかなる残滓から出来上がっているかを考えることが重要、と強調してきた(つもりである)。