つい数日前まで泊まっていた温泉地あたりが台風で大変なことになっている映像を見て戦慄を覚える。
本日はオープン・キャンパス。準備から片付けまで、ほぼ自動的に身体が動くようになってきた。説明もほぼ無意識のままできてしまう。
ところで、学生に指摘されて初めて気づいたが、私は英語をしゃべっている時、日本語の時よりも声が低いらしい。言われてみると実際そう。うーん、なぜだろう。そういう「構え」が身についているということか、それとも低い音域を使った方が単に発音しやすいということか。
暇な時間を見ながら読んだのは、
- 作者: 原武史
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/05/19
- メディア: 単行本
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たまには研究に直接関係ないものを読みたくなってなんとなく手に取ったらこれは面白い。まだ半分くらいだが。
なんとなく手に取った理由は、1974年とは他ならぬ私の生年だから、ということと、原武史氏の著作は気にしながらも読んだことがなかったから。なぜ1974年かといえば、70年あたりまでの「政治の季節」が終わり、その後には私生活主義、シラケ世代がやってきたという歴史ナラティヴに対し、私生活主義と切って捨てられるものの中に進行していた「政治」をあぶりだそうということであろう。団地と小学校という狭い世界を切り口に。
それがどのように成功しているかということは残りを読んで考えたいが、何とも小説的な、研究書ともドキュメンタリーともつかない本であり、感嘆している。
「小学生の時に見た、あの風景」の意味と歴史性を、30年以上経った視点からふり返って再発見・再構築するという手続き。小説の語りのマトリックスが探偵小説であり、トラウマ的な出来事の執拗な語り直しであるなら、この本の語りは小説そのものであり、その点に非常に惹かれる。なんというか、自分の小学生時代についても同じ作業をしてみたい、という誘惑。
日教組の影響下での集団主義と、小学校における「上からの民主主義」というあたりは、少し時代は後になるが私の小学生時代にもその残滓があったなあ。私自身、「正解の用意された自治」への違和感があって、小学校から高校にいたるまで、自治会に類するものから冷淡な距離を取っていた。しかし、本書が単なる、よくある日教組批判に堕することはなくとも、そのような言説にとりこまれ利用される種類のものになりはしないかという危惧もあり。引き続き読むべし。