経験について

 『滝山コミューン一九七四』の後半を読む。

 昨日の危惧は後半にいたって募っていった。当時の小学校における集団主義と、ファシズムの技法を並置してみせることは、戦略的には意味があってもあまりにも粗雑だろう。合唱による共同体の紐帯の生成をすべて同じ水準で捉えたら、そりゃ天皇制だって左翼だってファシズムだって小学校だって同じ。むしろ、国家権力に対して教育現場が敗北を続けている今、「滝山コミューン」にはユートピア的な輝きさえあるのではないかと思う。その点は終章で述べられてはいるが、やはり著者の滝山コミューンに対する負の感情の方がインパクトが強い。また、ちょっと陰謀論的なトーンに傾きすぎではないかとも。

 といいつつ、かなりの共感を抱きつつ読んだ。私とは時代も少し違い、なんといっても東京とその他の状況は同じ国とはいえないくらいの違いがあるわけだが、集団からぽつねんと離れており、中学受験によってそこから逃走したというあたりは、私の経験と妙に重なるのである(まあ、同じ中学受験でもこれまた厳しさが全然違うが)。

 そう、経験。読みながら、経験という問題について考え続けた。この本は、ごくローカルな経験と、歴史的大状況のあいだを、あやうく大胆に跳躍してつなげる、というか並置するわけだが、そこで想起したのはレイモンド・ウィリアムズの「経験」であった。その意味での経験とは「個人的なことは政治的なこと」といったスローガンとも関係なければ、特定の社会セクターの経験が歴史的に「典型」「普遍」の地位を獲得するということでもなく、いかなる社会観察者も自らの経験(ローカルというより、シンギュラーな経験)から出発するしかないという、かなり愚直な話なのだろう。そういう愚直さ(無意識過剰と表裏一体)に共感するのである。それが単に「私」を独善的に語ることに堕するか否かは、「塩梅」の問題だが。