先進リベラリズム=第三の道?

 昨日は新自由主義読書会。

Powers of Freedom: Reframing Political Thought

Powers of Freedom: Reframing Political Thought

 この本から、"Advanced Liberalism"の章。この本が1999年、論文自体の初出は1993年ということを考えると、新自由主義の全般的記述としては充実したものである。特に、労働と非労働、雇用と失業の区分が崩壊するポストフォーディズム状況、「生涯学習」と新自由主義の関係、官僚および官僚的な「中間的なもの」の管理のための「監査社会」など、その記述だけは頷いて読む。完全に、現在の日本の状況だし。

 しかし、どうしてそれを「新自由主義」とは呼ばず、「先進リベラリズム」と呼ばなければならないのか。Roseの説明では、右翼的な政治傾向から出てきた新自由主義に対して、右も左もなくなった先進リベラリズムということだが、そのような「名付け」によって、かなり決定的な「排除」が行われているように思える。

 その「排除」は、思いついた限りでは二つ。

 ひとつは、「先進リベラリズム」は、あくまで潤沢経済を前提としていること。欠乏経済ではなく、潤沢経済であるがゆえに「自己実現」が主体のイデオロギーとして支配的となりうる。それって、単純に嘘でしょ?と。

 もうひとつは、新自由主義自体を「右翼的」と規定することの問題。そこからは、ポスト68年の「反革命=反転された革命」としての新自由主義という視点がすっぽりと抜けおちる。

 他にもありそうだが、ともかくも、このNikolas Roseという人、現在は巨大な資金を取って研究所を立ち上げたりしているらしく、Anthony Giddens的な存在だろうということで一致。

 大きなため息をつかざるを得なかったのは、「生涯学習」が──終わりなき自己のマネージメントや「啓発」として──新自由主義に収奪されることと、一番最後に述べられ、その次の章で論じられるcommunityもまた新自由主義に簒奪されたことを考えると、Raymond Williamsが50年代に成人教育をしつつcommunityについて述べた状況からいかに遠く離れてしまったか、ということ。いや、ニュー・レイバーはそういったWilliams的遺産をみごとに「収奪」しているのである。その「収奪」にため息をつくのではなく、可能性の中心として収奪しかえすことは不可能であろうか。