うんちと他自律性

 今年は(今年も、だが)月曜が「研究日」という名の授業準備日だが、この先夏休みまではまとまった時間を取って子供の相手をできないかも、ということで、日曜までに授業準備を済ませて平日狙いの月曜に「たまどー」へ。多摩動物公園へ。こりゃ、2歳児には広すぎる。お目当ての動物まで移動するのに一苦労。それにしても、よく歩くようになったけど。半日歩き通しで親の方が疲れる。

 しかし、なぜあんなに「うんち」が好きなんだろう。あらゆる動物について、その周辺に転がってる「うんち」の存在を指摘する。いや、そりゃそうだよね。うんち、好きだよね。

 そんなこんなで今日は英語の授業だが、ずっと治らない鼻風邪がちょっと悪化したみたいで、不調。うーん。

 来週末のレクチャー準備。『政治的なものについて ラディカル・デモクラシー』が届いたので読む。理性的な熟議を経たコンセンサスを前提とする民主主義論に対して、カール・シュミット的な友/敵関係の敵対性を民主主義の根源におく。かといって、カール・シュミットのように敵対性と民主主義とを共約不可能なものとは考えない。そこで出てくる第三の道が闘技的(アゴニスティック)民主主義ということだが、どうも腑に落ちない。

 問題は、本人が「政治的なもの」におけるハイデガー的な「存在的/存在論的」なもののうち、存在的な局面を問題とするというようなことを宣言しておきつつ、議論の構えというかレトリックのレベルですごくメタな感じを受けることかもしれない。などと思いながら自分のブログを「未来性」というワードで検索してこれまでの思考の筋道を確認してみて(便利だなあ)、キーワードは「アゴニズム」「未来性」に加えて「他(自)律性」であることを思い出す。ムフにはこの他自律性の水準が決定的に欠如してはいないか。精神分析についてのセクションなど設けてはいるものの、「大衆の情動」というような水準の話しかしておらず、そこからは下手をすると「マス」の情動のコントロールといった議論が出てきてもおかしくないくらいの印象を受ける。他自律性にまつわるハーマッハー並の強度の議論と比べたとき、ムフの「闘技的民主主義」はどうしようもなくリベラル、というか、社会/人間工学的なのだ。

 言いかえると、ムフには「アゴニズム」に含意される「アゴニー」の水準が欠けているということかもしれない。闘技的と言うのはいいけれども、そこには自らが前衛となって、後から来る者たちが乗り越えるための死骸の山となる覚悟というか、そういった可能性の「承認」がありますか、ということ。それは、今使った「承認」という言葉のムフによる使い方に表れている。ムフは敵対性が存在するという事実の「承認」を求めるわけだが、そのような承認は「勝者」の構えであって、自分(たち)が殲滅されようとする時にそんなもの「承認」してる余裕はないだろうと。それは承認するもしないも「ある」のだろう、と。(身も蓋もない言い方をしてしまうと、結局ムフもアイデンティティ・ポリティックス+多文化主義パラダイムを決定的なかたちで受けいれているということか。)

 うーん。シュミットの熟読に入るべきか。