シリトー=尾崎

 突然ですが、アラン・シリトーが気になる。

Saturday Night and Sunday Morning (Vintage International)

Saturday Night and Sunday Morning (Vintage International)

 これは、階級小説であるよりは、階級を道具立てにしたイニシエーション小説なのである。主人公のアーサーは、ピカレスク小説的な遍歴のはてに、「普通の結婚」をする。これは、19世紀的な教養小説とは本質的に異なる。教養小説の「成長」とはすなわち階級上昇である(教養小説に「成長」という言葉をあてはめるのが、決定的な時代錯誤だけど)のに対して、シリトーにおいては階級の上昇はない。むしろ、「大人になってあるべきところにおさまる」小説、アイデンティティ小説なのである。だから、イニシエーション小説としか名づけようのない、おそらくそれまでのイギリス小説には存在しなかった種類の小説なのである。

 で、これをどう説明するか、というときに、とりあえず考えられるのは、『ライ麦畑』に象徴されるような、大西洋両岸でのイニシエーション小説の同時多発で、これを「冷戦リベラリズム」で説明するという方向。これは明日の読書会でやるんでしょうかね。

 もうひとつは(冷戦とも関係あるが)、神戸の学会で話した、50年代における文化左翼的なものと社会左翼的なものの分断の問題。ゼミで読んでる(というか今日該当部分を読む)この本は、それを半分くらいまで説明してくれている。

Cities of Affluence And Anger: A Literary Geography of Modern Englishness

Cities of Affluence And Anger: A Literary Geography of Modern Englishness

 主人公アーサーの「怒り」とはなにかというと、「豊かな社会」で物質的にはめぐまれながら、労働者階級としての矜持が失われているのはもちろん、労働者階級であるかどうかはともかく、社会的集団性に尊厳を見いだすことができなくなっているという乖離状況への怒りだと説明されている。これはまさに、フレイザー的な「再配分と承認」という問題系がここで生じているということである。これは単に、再配分は果たされたけど承認がまだ、というような足し算的な問題ではなく、福祉資本主義下での再配分が、必然的に「承認」を疎外してしまうという問題なのである。というか、そもそもその二つを分断することが、福祉国家のコンセンサス・ポリティクスの要だったということだ。

 なんだか、シリトーって、尾崎豊だね。日本で言うと。

 ということを、とりあえずメモ。