水曜に再び発熱。午後を休講にしてようやく医者に行く。医者との会話。「普通抗生物質は出さないんですけど……」「出してください。」「はい、出します。」やけに従順な医者であった。
薬を飲み、ひたすら睡眠。でも木曜は某所の高校に営業活動に行かねばならず、本日は非常勤と会議。でもなんとか快方に向かっている模様。
- 作者: ルイアラゴン,佐藤朔
- 出版社/メーカー: 思潮社
- 発売日: 1988/10/01
- メディア: 単行本
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ルイ・アラゴンは20年代がブルトンなどとつるんだシュールレアリスム時代、30年代は共産主義作家として社会主義リアリズムの作品を書くという、大戦間期の文学史の教科書のような流れを一人でやった人だが、この作品(1926年)はシュールレアリスム時代の最後の小説。
ここのところ関心を持っている都市文学というテーマにとってはやはり欠かせない作品であり、読む。冒頭のパサージュの記述がベンヤミンのパサージュ論に影響を与えていることはもちろんだが、ウルフやマーリーズとの関連でも面白い。
タイトルの「農夫」はフランス語でpaysanなのだが、このフランス語がなかなかやっかい。単に「農夫」なのかと言えば、そうでもないような気がする。辞書上の英語への訳はpeasantなのだが、paysanにはpays、つまり「国」が入っており、英語に訳すならcountrymanとした方がいいのではないかとさえ思えてくる。つまり、『パリの農夫』というタイトルは、近代都市を故郷とするような人物のことであり、この作品のひとつの目的は「パリの田園化」であるということができる。田園化というのはもちろん緑化とかいう意味ではなく。
この「都市の田園化」が上記のウルフ(『ダロウェイ夫人』)などに通底するテーマではないか、と。その意味で、『ダロウェイ夫人』と同じく『パリの農夫』でも「公園」が重要なロケーションとして頻出することは興味深い一致。*1
関係あるのかないのか、ドゥルーズはどこかで「歴史の農夫(paysan)」ということを言っていて、私の大まかな理解では、大文字の歴史に分節化されないが歴史を形成するような「民衆」のことのようである。パリの農夫も、雑踏に飲みこまれつつそれを形成するような都市住人の謂いなのであろう。
*1:もうひとつ一致、というか、ずれをともなった一致が。『パリの農夫』で出てくる自殺の名所の橋は、『ダロウェイ夫人』における窓である。その橋について、一方に身を投げれば道路だがもう一方に身を投げれば湖に落ちてしまうという風な記述があるのだが、これはセプティマスが身を投げ、クラリッサが身を投げようとする、都市において「内と外」のまさに閾となる窓と等価である。ちなみに『ダロウェイ夫人』での窓は、ブアトンのフランス窓、総理大臣(?)の車の窓などといった形で反復される。