家・公園

 来ました。はしか、上陸。非常勤先で一コマ休講。正直うれしくもなんともない。補講が待っているだろうから。

Cities of Affluence And Anger: A Literary Geography of Modern Englishness

Cities of Affluence And Anger: A Literary Geography of Modern Englishness

 ようやく第二章(フォースター、ウォー論)と第三章(ウルフ、セルヴォン論)を読み終える。ようやく、というのは忙しさもあるが、どうも冗長なのです。この人。

 第三章はフォースター『ハワーズ・エンド』とウォー『ブライズヘッド再び』というカントリー・ハウス小説を、エベネザー・ハワードの田園都市論とならべて読む。Kalliney曰く、ハワードの都市論は「ポスト帝国の都市」のヴィジョンであり、フォースターとウォーの小説は、カントリー・ハウス小説という伝統の失調の時代、つまりパストラル的全体性・有機体・イングリッシュネスへの回帰が不可能になった時代に、ハワード的なポスト帝国都市を想像する試みである。

 ウルフ『ダロウェイ夫人』については、リージェント・パークの場面の読解がハイライトか。公園の建設が帝国主義と分かちがたく結びついており、公園は退化しつつあったイギリス国民(特に労働者階級)に健康な身体を与えるためのものであったという歴史を背景に、ピーター・ウォルシュとセプティマス、ルクレツィアとの公園という空間認識の違いなど。

 サム・セルヴォン『孤独なロンドン市民たち』については、作品を読まねばなるまい。これ、1956年の作品なんだな。戦後イギリスのピヴォタルな年(ということで、『日の名残り』への言及も当然あるが、passing referenceという感じ)。

 この二章は構成が対称的になっており、要するにフォースター→ウォー、ウルフ→セルヴォンというふうに、同じ主題の別の時代の作品を並べることで、事態が「悪化(?)」していくことが示されるという仕組み。こういうの、嫌いじゃない。

 でも、やっぱり冗長だなあ。アルチュセールイデオロギー的主体論に関してもこんなに長々論ずるよりも、「論より証拠」という形で、作品読解で示してくれる方が説得される。