火の用心と中世都市と戦争

 風邪が治らない。ちょっとよくなったかと思って授業を一コマやると、また微熱、鼻づまり、喉の痛みが戻ってくるのくり返し。

 ところで、アメリカの哲学の伝統は? と問われたらまずプラグマティズムが挙げられるのかもしれないが、その現代の旗手であったリチャード・ローティが死去したそうであるが、それとは関係なく、その伝統の創始者のひとりであるウィリアム・ジェイムズが「戦争の精神的等価物」という話をしているのはどの著作なのかしら、などと言い出すのは、

都市の文化

都市の文化

これを読んでいて、中世都市市民による夜警は、ジェイムズに言わせれば戦争の精神的等価物(道徳的等価物、という訳になっているが、多分moral equivalentの訳だろう)だというくだりに出会ったのである。

 この本はまだ読み始めたばかりだが、現在調べているテーマにとっては欠かせない人であろう。エベニザー・ハワードのアメリカにおける等価物として。『都市の文化』は1938年刊で、ハワードより後だが、重要なのは、当時の都市論を読むと、単純な田園回帰的言説というのは主流ではなく、あくまでテクノロジーをいかに駆使して都市の現状を改善していくかというところに関心が集まっていたということで、この本もその例にもれない(みたい)。

 中世から説き起こして現代までいたる大冊だが、私がいま読んでいる中世都市の部分でも、ラスキンやモリスの中世理想化を名指しで否定し、中世都市の起こりとはすなわち資本主義的経済活動と技術革新の萌芽であったと論じている。

 ところで、戦争の精神的等価物。私は今年、町内会の組長だったりして、先日は「火の用心」(拍子木叩いて、「ひの〜よ〜うじん」と言って回る、夜警)をして回ったのだが、あれも戦争の等価物ということか。まあ、確かに戦争待望論が共同体の紐帯の不調から生まれるのだとすれば、「火の用心」をできる共同体に戦争は必要ないと言えるのかもしれないが。