ストーカー文学

 といっても、『ドラキュラ』の話ではなく、ブラムのつかないストーカーの話ですが。

 都市と文学ということを考えるときに、ストーキング行為ははずせない事象であると気づいた。といっても、今思いついている事例はこの二つだけなのだが。

ダロウェイ夫人

ダロウェイ夫人

 『ダロウェイ夫人』のピーター・ウォルシュと、

ボードレール全詩集〈2〉小散文詩 パリの憂鬱・人工天国他 (ちくま文庫)

ボードレール全詩集〈2〉小散文詩 パリの憂鬱・人工天国他 (ちくま文庫)

 『パリの憂鬱』から「寡婦たち」。

 ピーター・ウォルシュの場合は確か若い娘だが、ボードレールは貧しい寡婦をストーキングする。いずれも、時間をもてあまして、街をぶらつくブルジョワの所業。ピーター・ウォルシュはその「冒険」にかなり興奮しちゃってるが、ボードレールは人間観察者としての姿勢を崩さない。人間観察というより、ボードレール自身が言うところの「群衆を沐浴(ゆあみ)する技」のひとつなのだろうが。いわゆるフラヌールの一側面として、ストーキング行為を挙げてもよかろうと思う。シャーロック・ホームズのシリーズも「ストーキング文学」のひとつ、というよりそのモデルケースだろうか。匿名性に覆われた都市のジャングルでの、追跡行為。

 とか何とか書いているのは、他にストーキング行為が描かれた作品はなかったかしら? という疑問からなのですが。他に重要なのがもう一つあったように思うのだが、思い出せません。あったら、ご一報ください。