といっても、『ドラキュラ』の話ではなく、ブラムのつかないストーカーの話ですが。
都市と文学ということを考えるときに、ストーキング行為ははずせない事象であると気づいた。といっても、今思いついている事例はこの二つだけなのだが。
- 作者: ヴァージニア・ウルフ,丹治愛
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1998/07/06
- メディア: 単行本
- クリック: 1回
- この商品を含むブログ (9件) を見る
『ダロウェイ夫人』のピーター・ウォルシュと、
ボードレール全詩集〈2〉小散文詩 パリの憂鬱・人工天国他 (ちくま文庫)
- 作者: シャルルボードレール,Charles Baudelaire,阿部良雄
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1998/05
- メディア: 文庫
- 購入: 3人 クリック: 6回
- この商品を含むブログ (8件) を見る
ピーター・ウォルシュの場合は確か若い娘だが、ボードレールは貧しい寡婦をストーキングする。いずれも、時間をもてあまして、街をぶらつくブルジョワの所業。ピーター・ウォルシュはその「冒険」にかなり興奮しちゃってるが、ボードレールは人間観察者としての姿勢を崩さない。人間観察というより、ボードレール自身が言うところの「群衆を沐浴(ゆあみ)する技」のひとつなのだろうが。いわゆるフラヌールの一側面として、ストーキング行為を挙げてもよかろうと思う。シャーロック・ホームズのシリーズも「ストーキング文学」のひとつ、というよりそのモデルケースだろうか。匿名性に覆われた都市のジャングルでの、追跡行為。
とか何とか書いているのは、他にストーキング行為が描かれた作品はなかったかしら? という疑問からなのですが。他に重要なのがもう一つあったように思うのだが、思い出せません。あったら、ご一報ください。