産む機械と自分探し

 厚生労働大臣が「女性は産む機械」発言をして辞めろ辞めないの話になっているが、あんなものは口にしてしまった時点でさっと辞めるべきであって、その議論に国会の時間=税金を費やすこと自体が問題なのである。最初はこの大臣、ドゥルーズでも読んでるのか? と思ったがその様子もないことだし。読んでいたら免罪されるということでもないが。

 ところで、こんなことを言い出すと、それこそ私が辞任を求められそうだが、あの発言は「女性は産む機械だ」ではなく、「子どもを産む機械の数は決まっている」というような言い方だった。多分、言いたかったのは、統計上の出生数はほぼ予想がついているのだから、それに従った現実的な政策を立てねばならないということだったのだろう(それでもあの言葉を選んでしまったという一事において辞任は免れないのだが)。*1従って、女性がすべからく産む機械だ(そこから子どもを産まない/産めない女性は排除)ということではなく、子どもを産む人間の統計的数字が決まっていて、それがたまたま女性(の一部)であるというだけだ(しつこいが、だからといって件の大臣がどうしようもないセクシストである可能性は排除されない)。さらには、そう考えると、「産む機械」とは女性だけではなく、配偶者や家族制度、経済条件など、新生児を出生させる環境のすべてだと言えよう。さらに、一人の人間は「労働する機械」であり、「勉学する機械」であり、「消費する機械」であり、「税金を納める機械」であり……

 人間は統計上の数字=機械に還元されることに抵抗する。自らのアイデンティティを、統計上の数字だけで示して満足する人間はほとんど居まい。その抵抗が昂じて、統計そのものが冷厳に示す事実から目をそむけるということが起きる。私が言っているのは例えば大学のことで、現在大学の顧客になりうる機械の数は、18年前に決まっていた。90年代に大学に起きたことは、その統計的事実をまるっと無視した拡大路線である。20年前にタイムスリップして言いたい。「いや、10年後、20年後に大学で学ぶ機械の数は決まっているのだから……」。

 ところで、統計上の数字に還元されることへの抵抗と、自分探しのイデオロギーと、ニート問題は通底している。自分探しといえば、最近はさる引退したサッカー選手が世界を旅して「貧しい国の子供たち」とサッカーをする、という気持ち悪い姿が伝わってきているが、あの「自分探し」というのは、サッカー選手という職を失った人間が、いまさらサッカー以外のこともできないしどうしよう、と、うろうろしているのであって、かの選手は統計上のカテゴリーとしてはニートにほかならないのである(彼の場合は、残りの人生のあいだずっと「自分探し」していても困らない財力を持っているという前提条件があるが)。多くの人が忘れているが、「ニート」とはこれまで統計上のカテゴリーからこぼれていた層をカテゴリー化するための言葉であった。

 「自分探し」というのは、統計上の数字となることを拒むことではないか。言いかえれば、「働く機械」「産む機械」「学ぶ機械」「消費する機械」など、いかなる機械になることも拒むことである。そういうわけで、「自分探し」のモデルケースは、自分のことを誰も知らない(=自分がいかなる「機械」にもならない)異国に行って「本当の自分」に出会う、というものとなる。

 これをさらに違う角度で見ると、自分探しとはあらゆる「社会関係資本」を放棄する行為である。自分探しに出てしまった若者は、それまで築いた社会関係資本をみずからなげうって、ニート化する。一方で「勝ち組」は自分がどのような統計的位置にいるかを日々確認してはほくそ笑むだろう。それは、自分の社会関係資本の潤沢さを示す指標なのだから。そして、できることなら「自分探し」のイデオロギーをさらに蔓延させて、自分の地歩を固めたいと思うだろう。「自らのアイデンティティを、統計上の数字だけで示して満足する人間はほとんど居まい」と述べたが、それで満足する人間こそが社会的勝者となるのだ。

 したがって、「産む機械」という発言に対して、「かけがえのない個人を機械呼ばわりするとは何事だ」という批判を繰り出すことは、社会関係資本の権化であろう当の政治家の思うつぼなのかもしれない。

*1:この厚労相、記者会見で今度は「子ども2人以上が健全」発言をしたそうな。ここでも、人口減少を止めるためには2人の人間が2人以上再生産せねばならないという話しなのであろうが、「健全とは何事か」という批判が起きている。はっきりいってどっちでもいいのだが(国会での無意味なお祭りをやめて欲しいだけ)、人口減少を止めなければいけないという大前提は疑われないのであろうか。いや、人口の多い団塊ジュニアとしては、老後の社会保障を考えると労働人口が増えないとヤバイんですけどね。と、いう発言から分かるように、団塊ジュニアは非常に保守的たらざるを得ない歴史的めぐりあわせにある世代のようです。保守的になる余地さえ残されなかったら革命を起こして、その後に独裁者をもちあげたりする世代。