成長という不快

 「洗うこと」は洗う対象の観察をともなう。洗車をしていて車体の傷に気づいたり、皿を洗っていて欠けていることに気づいたり、洗濯物を干していてシミに気づいたり。

 それと同列に扱うのもどうだとは思うが、子供たちの風呂入れ担当の私は、風呂に入れている時に色々なことに気づく。主に身体的特徴。双子ですが、ずいぶん違います。今日風呂に入れていて、ふと、「あ、デカい」。いや、大まかな点だけど、やはり毎日接していると成長を実感することは難しい。誕生から3週間。体重は1キロ増えて、数字上は三割り増しなわけで、「デカい」のは当たり前なんですけどね。

 赤ん坊が泣くときというのは、お腹が空いていたり、おむつが気持ち悪かったりという分かりやすい場合もあれば、見ていて「きっと何かが気持ち悪いんだろう」と考えるしかない場合もあって、難しい。何にせよ、新生児の意思表示というのは何らかの身体的不快を泣き声にして表す、それに尽きるわけだ。それを眺めていて、「そういえば子供の頃、自分の身体は不快だったなあ」と思い出す。そう、産まれてからしばらくは自分の身体は不快だ。何というのか、折り合いがつかない。自分の身体と折り合いがつくのは、多分個人差があって人によっては一生つかない人もいるのだろうけど、極個人的には十代の後半までは無理だった気がする。まあ、そりゃ、成長の過程では昨日の身体と今日の身体が劇的に違うんだから、不快で当たり前なんだけど。

 ひるがえって三十路の現在、身体に対する違和感や不快感を感じることは驚くほど少なくなったと、改めて思い知らされる(それは、特に大きな病気もせずにいられたことの幸福なんだけど)。今後大病をしない限り、次にそういった違和感を感じるのは「老い」を感じる時なのでしょう。いや、すでに記憶力の低下とか基礎代謝の低下に悩まされてますが。