週末は狼協会大会。どうにも体調が悪く、夜ホテルでもよく眠れなくて体調をさらに崩しそうだったので早々と退散してしまいましたが、本務校大学院のIさんの発表だけは這ってでも、と。(←いい先生アピール。)見事な発表をしてくれて一安心。
往復でこちらを読破。
帝国の文化とリベラル・イングランド―戦間期イギリスのモダニティ
- 作者: 大田信良
- 出版社/メーカー: 慶應義塾大学出版会
- 発売日: 2010/10/01
- メディア: 単行本
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これ、12月のワイルド協会の発表に深くかかわるかも、だなあ。ワイルドが「社会主義下の人間の魂」で言う「個人主義」が、ヴィクトリア朝的(レッセフェール的)リベラリズムから、ニュー・リベラリズムのリベラリズムへの変遷を背景とした、リベラリズム概念の彫琢のしなおしだったとすれば、大田本の大テーゼである、「リベラル・イングランドの奇妙な死=生き残り」にぴったりとあてはまる。そしてこれを現代への系譜として見いだすためには、冷戦期におけるワイルドのリベラリズムの「再発明」の様相を見る必要があるだろう……と、おおまかな論旨はこれでいけるのかもしれないが、あとはそれを説得的に示せるテクストですな。順番逆だろうって? いやいや。
大田本全体については、やはり私として気になるのはウィリアムズの扱いだろうか。ブラントリンガーの「ブルームズベリー・フラクション」論文読解ってまちがってんじゃないの?というのはすでにご本人に言ったような気もするが、問題はウィリアムズを何が何でも擁護したいということではなくて、ウィリアムズ/イーグルトン/ジェイムソンの三者のねじれた関係だろうか。有機体論ということで言うと、イーグルトンはウィリアムズの有機体論を(アルチュセールの導入によって)一旦は否定しようとしたが、それと同時代にジェイムソンは同じくアルチュセールを導入しつつ、有機体論を否定しないという離れ業をやってのけた(と、私は思うのですが)。要するにイーグルトンは有機体論を物象化してしまったわけで、逆にいえば「有機体論」と言われるものの可能性をこそ、今は問い直すべきなんじゃないの?と思うわけだ。その意味では、「ジェイムソンとウィリアムズ」という問題系、一度真正面から取り組む必要がありそう(というか、博論の軸はそこになるのか?)。
とまあ、個人的な感想ばかりで客観的な評価ではないですが。