リベラリズムの外側は無だ

 『Web英語青年』の連載、「21世紀の生のためのキーワード」、今回は三浦玲一さんによる「リベラリズム」です。アイデンティティ主義とリベラリズムをめぐる氏の思考をまるっとまとめて読める、おいしい読み物になってますのでぜひ。

 勝手に取り急ぎ付け加えておくと、「だからリベラリズムは悪だ」という疾しい発想の話ではありません。歴史的にみて、リベラリズムはある水準で確実に「良いもの」なのだけれども、その「良さ」を確保しようとするときに生ずる必然的排除の話といいましょうか。

 で、そのような外部性のなさ、究極の地平に見えてしまうリベラリズムを超えられるのは、マルクス主義だけだ、とか叫んだらドン引きなのでしょうか。まあ、マルクス主義だけではなくてファシズムも超えられますけど。つまり、リベラリズム個人主義を装った集団性の思考(ゆえにアイデンティティ主義の二面性)なのだが、それはいわば「野性の思考」であって、基本的に意識されるのは個人主義でしかない。そこへ行くと、現在『政治的無意識』を再読して痛感するのは、この本は基本的に集団性の話をしつづけているということである。

 そこで気になるのは、オスカー・ワイルドの「社会主義下の人間の魂」における、「個人主義」の予言。なぜ気になるかというと一か月後にワイルドについてしゃべらなきゃならないからですが。ある意味これって、20世紀後半の福祉国家の見事な予言となっていて、福祉国家下で進行してネオリベを準備したリベラリズムと、ワイルドがどこかで交差しないかしら、なんて妄想し始めてます。そのためにはメタ批評的な手法が必要になるか。