ジェイムソンとは何だったか

 昨日は新自由主義研究会。「で、ジェイムソンってさあ」という話を正面からするのは久々であった。

 自分で部分的に訳しておきながら、やはり不明な部分はいっぱい。特に第8章の「レンガと風船」は難物。訳したどなたかは大変だったことでしょう。

 『カルチュラル・ターン』の内容とは別に、自分でしゃべっていて、80年代あたり以降のマルクス主義批評の「歴史化」について、ある程度の道筋が見えてきたような気がするのでメモ。

 ジェイムソンは、新自由主義時代になって、ベタな搾取や貧困が表面化し、俗流マルクス主義の有効性が高まると、80年代には予測し('Periodizing the Sixties')、『カルチュラル・ターン』でも繰り返しているのだが、そう言いつつ決して俗流マルクス主義に回帰するわけではない。『政治的無意識』以来のアルチュセール主義を、どこかで手放していない。

 アルチュセール主義はなんだったのか、構造主義とはなんだったのかを考える時、批評理論の概説書を読んでも何も分からない。その歴史記述はやはりすくなくとも50年代からなされるべきだろう。つまり、スターリン批判とハンガリー侵攻、それを受けた西欧マルクス主義=修正主義的マルクス主義、そして文化大革命と、そのアンビヴァレントな影響下にあった「第一世界60年代」(ジェイムソン)、といった文脈で構造主義の登場はみられるべきだろう。雑駁な話であるが、スターリン批判と、文革の半分は、経済還元主義に対するタブーを生み出したのであって、西欧の修正マルクス主義はそのタブーとの戦いの歴史だったといっていい。文革がアンビヴァレントだったというのは、いっぽうでジェイムソンが言うように、文革は60年代に共産主義を排斥するために(すくなくとも北米では)使われたと同時に、ほかならぬアルチュセールらに強い影響を与えたのが、毛沢東の『矛盾論』、とくにその中の「相対性」の概念だったということ。おそらく、経済還元主義のタブーをきりぬけつつ、スターリニズム文革の影をふりはらうのに、(毛沢東ではなく)構造主義は格好の道具となった。だから、批評理論の教科書の記述とは違って、構造主義は歴史上の要請にたまたま合致した、周辺的または表面的な動きでしかない。

 このような歴史記述をしてみると、やはりイギリスでは、第一世代ニューレフトの忘れられた可能性ということを考えてしまう。ウィリアムズが文化を「生の全体的様式」といったときじつはこれはラディカルな経済還元主義としても読めてしまうのであるが、そのような読みを抑圧する、「ウィリアムズ埋葬」の系譜があるのではないかと。(で、やはりペリー・アンダーソンが臭いわけですが。)

 ジェイムソンのアルチュセール主義と俗流マルクス主義の問題にもどると、これはタイミングの問題でもある。思うに、本当に俗流マルクス主義が必要だったのは、80年代から90年代だったのではないか。00年代はというと、今回問題になった金融資本主義や搾取・貧困の問題は、00年代には「あまりにも明白」になっている。だから、すでにかなり急進主義的な議論は支配的になりつつある。そのような現在には、ひょっとするとジェイムソンがかつて言った「俗流の効用」はないのではないか、というのはかなり適当な直感で言ってたりして。

 こんなこと書いてないで原稿出せ、という声がいろんなところから聞こえてきそうなのでこれくらいで。