20世紀エステイト・ノヴェル

 本日の大学院ゼミは、カリニー本の第二章の準備として、フォスターの『ハワーズ・エンド』とウォーの『ブライズヘッド再訪』を読む。

 この辺の作品、私は5年くらい前に「20世紀版エステイト・ノヴェル」として集中的に読んだ記憶がある。列挙するならば、上記の二作品にくわえて、ウルフの『ダロウェイ夫人』、イシグロの『日の名残』もそれに属する。パターンとしては、物語の現在と失われた過去があり、その過去をカントリーハウスが象徴するというもの。

 このパターンがなぜ20世紀に頻出するのか、そしてそれぞれの作品の差異から、それらの作品の「政治的無意識」はなにか、ということを論じようと思っていたのだが、なんだかんだで放りだしたままの主題になっている。

 今日やって分かったのは、フォスター/ウルフ→ウォー→イシグロという流れの転回のありさま。フォスター/ウルフにおいては、カントリーハウスというトポスの「象徴性」がまだ可能である。それは現在時に再統合されるべき、ノスタルジックな過去として機能している。ところがウォーにおいては、カントリーハウスがあまり象徴として機能しておらず、ノスタルジアというものが存外に少ない。イシグロは、ウルフやフォスターからひと回りして、もうノスタルジア丸出しである。

 以上は「感想」の水準の話なので、これをさらに掘り下げればそれなりのものがまとめられるのではないかと直感。たぶん、最後のイシグロについては、ジェイムソンが述べているようなポストモダンにおけるノスタルジックなものの濫用という観点で説明できるだろう。その意味でイシグロはどこまでも、どうしようもなくポストモダンである。フォスターの「政治的無意識」については結構あたりがついてきた。詳しくは端折るとして、『ハワーズ・エンド』の政治的無意識・不在の原因は「石油」である。(サイードが19世紀版エステイト・ノヴェルの政治的無意識として植民地を挙げたのの、20世紀版。)

 で、問題はウォーで、『ブライズヘッド』では、ノスタルジアの不可能性そのものが主題化されているという、そこまではいいのだが、この作品の「不在の原因」は、と問われるとまだいまひとつ。でも、この主題に深入りするかなあ。ちょっとやる気は起きない。まあ、いずれ。

 それより月末のシンポ準備が危機的に進んでない。ああ。

Howards End (Penguin Twentieth-Century Classics,)

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Modern Classics Brideshead Revisited (Penguin Modern Classics)

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カルチュラル・ターン

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 ところでこの本をいただく。ありがとうどざいます。しかし、とっくに買ってしまってました。