大混乱

 日曜の新自由主義読書会の報告記を書こうと思っていたのだが、月曜からカミさんが高熱を出し、家事に追われておりました。今日も休講。ああ、来週の火曜も休講の予定なのに……。というわけで、明日の職場の歓送迎会は、行くつもりだったのだがキャンセル。(←というわけで私はいません、という連絡のつもり。)

 しかし、いざ家事をやってみると、日頃やっていないことが全く分からなくて困ったりする。日頃は風呂入れの担当なので、風呂から上がったときに着る(カミさんが用意している)子供の寝巻の場所が分からない、とかね(「靴下の場所」ってやつ)。しかし、ちょっと困っていると、子供たちが「ここだよ〜」と言ってさっさと自分で持ってくる。成長したのお、お前たち。

 そんなこんなで日曜の新自由主義読書会。ジョック・ヤングの『排除社会』だが、始まる前の雑談で大学院生のMくんが言ってたことが結構的を射ているような気がする。いわく、「難しい話を抜きにしたら新書になりそう」と。いや、つまり、こういう(この場合「後期近代」という)断絶のナラティヴにはつねに注意が必要なわけ。ポストなんとかのナラティヴは、現在を非常に非歴史的に見るための手段だし、返す刀で「ポスト」によって区分される過去も、非歴史化=抽象化される。

 それを歴史化するためには、一言でいえば「系譜学」(厳密にフーコー的意味ではなく、私の場合はウィリアムズ的な)が必要になると思っている。現在が過去の残滓で出来上がっており、したがって過去を見ることは現在を知ることである、というような。

 具体的にはヤングの場合は、福祉国家体制と後期近代=排除社会(もしくは過剰包摂社会)との関係ということになる。当日言ったことだけど、その点でやはり「福祉社会」に対する視座が甘いような気がする。特に、ヤングは個人主義を自由市場が生むということを言っちゃってるが、「自由な個人」という観念は、純粋な自由市場からは生まれないだろう。つまり、ホッブズ的な「万人の万人に対する闘争」というのは、個人主義ではない。ある意味での集団主義である。たとえそこまでは言えないとしても、そのようなアトム化と個人「主義」は違う。で、当日言ったように、現在の個人主義を準備したのは福祉国家体制ではないかと思っている。つまり、市場から個人を守る中間的なものとしての国家があまりにもうまく機能したために、それ以外の中間的なもの(コミュニティなど)が消滅してしまい、メリトクラシー的な理念のもとで、すくなくとも理念上は階級・人種・ジェンダーといったヒエラルキーを超えて人は「自由」だと思われるようになった。しかしそれは、国家の庇護のもとでの話であって、いざネオリベで国家が退場させられると、残されたのは「むき出しの自由な個人」だった、という。その意味で福祉国家体制はネオリベの系譜として見いだされるという、そういった視点に欠ければ欠けるほど、上記のような(非歴史的だという)印象を受けることになってしまう。

 ちなみにここで書いてること、少なくとも「歴史化」の考え方については月末の学会で話そうと思っていることなので、メモがわりです。