トランステクスタクチュアリティ

 昨日は本務校の言語社会研究科プロジェクト「トランスアトランティック・モダニズム研究会」講演会(告知の時、名前を間違ってしまいました。すみません)。遠藤不比人氏による「イギリス・モダニズム文学と精神分析――その間テクスト性の再吟味」。

 ご本人はここ数年いかに仕事が進んでいないかがわかったと謙遜されていたが、逆に、僭越ながらここ数年の氏の思考がもっとも凝縮され、かつ分かりやすく(それでも十分晦渋ですが)提示されたのではないかと思う。レイモンド・ウィリアムズにとり組んだ「痕跡」が確実にあったし。

 ウルフ・エリオット・フロイトの、死の欲動反復強迫をキーワードとするインターテクスチュアリティという話で、その「インターテクスチュアリティ」についての質問に対して、氏はある程度譲歩した(もしくは持って回った)答えをしたように思うのだが、もっとつっこんでしまえば、インターテクスチュアリティの肝というのは、「当時の」間テクスト性ということではなくて(それだと氏の批判する実証主義から逃れられない──というか、そもそも「インターテクスチュアリティ」には実証不能性が折り込まれているのだが)、現在の我々がそのテクストの織物に織り込まれた存在であるという点だと思う。アクチュアリティということです。その辺から、ちょっと誤解も含んだ手垢のついた「インターテクスチュアリティ」ではなくて、「トランステクスチュアリティ」なんてどうだろうと妄想。さらに「トランステクスタクチュアリティ(transtextactuality)」とか。いい加減にしなさい。

 あと質問できなくて残念だったのは、今回密かに(というか明示的に)導入されていた「経験」についてだろうか。

 最後にM浦さんから出た、「遠藤不比人って、実はリベラル・ヒューマニストじゃないの?」という質問(完全にパラフレーズしてます)にはちょっと興奮した。ある意味、その通りだと思う。ただしそこにおけるリベラル・ヒューマニズムはあくまで残滓的なものである。すでにゴミ屑と化したリベラル・ヒューマニズムを単に忘却するのではなく、我々の読みと活動を規定する無意識的残滓として引用し実践してみせることの今日的な批評性、これは確実に「ある」と思うのだ。現在を、「新自由主義」と規定できるならなおさらのこと。(あ、そういえば飲み会で「新自由主義研究会」についての話も。これ以上土曜をつぶせない、というより現状でも土曜は全部つぶれてるわけだが、これはぜひ進めたい企画。)

 でまあ、例によって飲んだり飲んだり歌ったり。

 飲み会での会話の中から備忘録。「トランスアトランティック」に関わるのだが、現在のアメリカの学者が盛んに「イングリッシュネス」を論じるのはどうしてなのかしら? ということが常々疑問だったのだが、これは、サッチャリズム以降パッケージ化されて世界に、そしてアメリカに「売り込まれた」イングリッシュネス、という歴史的系譜を挟み込んで考える必要があるかもしれない。そうするといよいよ、以前やった「イングリッシュネス研究をマッピングする」のアップデート、もしくは自己批判として『ハワーズ・エンド』―『日の名残り』論を構想できるであろうか。