「ガチンコ勝負!」みたいな雰囲気を醸し出していた新自由主義読書会、なんだか脳みそがフニャフニャしてしまい、観客のみなさまには期待はずれな結果に終わる。不徳のいたすところでございます。
しかし、「マイケルズじゃ元気でない」という、昨日口走った適当な感想は、私の中では修正されてません。「それはないものねだり」という感じでいさめられた気もするが、要するにマイケルズの言っていることは実質的に政治的動員の問題なのであって、「アイデンティティ主義」もその政治的動員の(歴史的)一形態なのだとすれば、それをポレミカルに批判するのは、「現在」に対する根本的な批判たりえているのかい? という疑いは、やはり払しょくされないのでありました。(アイデンティティ主義と新自由主義の親和性や、アイデンティティ主義が階級の隠ぺいに資する場合もあるという指摘自体には同意するものの、でもやはり、だからアイデンティティ主義はバツ、みたいなPC的思考――もしくはルサンチマン的思考――にはやはり与することができない。じつのところ、ここで「アイデンティティ主義はバツ、みたいなPC的思考」という不思議な表現が出てきてしまうことが、マイケルズのひとつの「病理」をよく表してるような気もする。つまり、これは昨日指摘したが、マイケルズは批判する相手に似てきていないか、という。そうだとすればどうすればいいのかというと、アイデンティティ主義が階級を隠ぺいする場合もあるなら、アイデンティティ主義と階級が結びつく場合もある、という非常に常識的な可能性をまじめに考えることではないか。たぶんマイケルズは一番最後のディレイニーのところでそれをやろうとしているのだろうけれども。だから、前回のナンシー・フレイザーの、「承認か再配分かは二者択一ではない」という議論は重要なんであります。いや、両方でしょう、と。この文脈で新自由主義の何が問題かということを定式化するならば、アイデンティティ主義がそれと結託して階級を隠ぺいすることではなく、それがアイデンティティ主義と階級がむすびつく可能性を隠ぺいすることが問題なのだ、ということになる。)
ところで、フニャフニャした理由としては、マイケルズがかなり依拠しているニール・スティーヴンソンを読んだことがなかったので読み始めてしまい、ここのところ夢中になってしまっていたのです。残念ながら、もし2010年に書かれたとすれば凡庸な作品かもしれないが、1992年の作品としてはおどろくべきものかもしれない。
- 作者: ニールスティーブンスン,Neal Stephenson,日暮雅通
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