勇み足

 昨日書いたとおり授業は金曜で終わり、一応の「春休み」が訪れたわけで(とはいえやはりそれなりに大学に通わねばならないみたいだが)、腰を据えて「仕事」にかかかる。

 この春休みはとりあえずほぼ終わりかけの翻訳一本を仕上げ、半分も終わってない翻訳(いくつか)を意地でも仕上げ、あとは文化史教科書の自分の章、それから5月の学会の下準備も進めておきたい。

 文化史教科書については、やはり問題は「文化」なんだよなあ、と改めて思う。文化という抽象は、基本的には政治的なものというか、分断や敵対性を想像的に解消するはたらきをもつ。というと「政治的じゃないからだめ」という別の抽象に振れてしまいそうだが、そういうことではなく、とにかく「文化」などという実体や現象は「存在しない」のだ。あるのは、政治的であり社会的であり人間的であり日常的であり学問的であり経済的であり精神分析的であり人類学的であり…(中略)…そして文化的である、またかつそのどれでもない出来事なのである。そういう「出来事」の手触りをいかにして残すか。これが必要だとひとり決意。原理は分かっててもネタがねえ……。

 そんなこんなで今日はほぼ終日翻訳。進んだような進まないような。

 合間に、半分読んで止まっていたこれを読破。

The Dark Philosophers (Library of Wales)

The Dark Philosophers (Library of Wales)

 ああ、なるほど。三篇の中編からなる本なのだが、通して三編読むべき構成になっていました。最後の一編'Simeon'のラストの、悲しいまでの爽快感というか、爽快感が悲しいというか、よくわかりませんが、ネタバレになるのであまり書けません。二編目の'The Dark Philosophers'は、『緋文字』のパロディーだったりするのかなあ。

 あと、これを読み始める。

シニフィアンのかたち―一九六七年から歴史の終わりまで

シニフィアンのかたち―一九六七年から歴史の終わりまで

 読んだような気がしてたのに内容が全然頭に入っていなかったのだが、本を開いて謎が解けた。イントロだけ読んで放り出してる(笑)。しかも結構腹を立てて(笑)。どこでかというと、ジュディス・バトラーの「再意味づけ」の議論を認めるならブッシュの「テロとの戦い」のレトリックも認めなければならない、そしてその逆もまた真なりという部分だったりするのだが。こういう、ポストモダニズム的かつ左派的な議論に対して、ある意味でのプラグマティズムで応じるというか、ポストモダニズムの不徹底という揚げ足を取るというか、そういうのはダメだろうと思った(のだと思う)。極論すると、バトラーには別に、自身の議論がブッシュを認めることになることを弁明する義務はない。ブッシュがダメだと思えば、『ジェンダー・トラブル』を書いて、その上でブッシュ反対の集会に出るなりデモに参加するなりすれば、それでいい(し、しなくてもいい)。逆に、ウォルター・ベン・マイケルズはブッシュの政策に反対なら(反対じゃないのかもしれないが)、こんなことを書かずに同じく集会に行くなりデモに行けばいい。もしくはブッシュ批判の論説でも書けばいい。

 なにが言いたいのかというと、マイケルズの議論って、バトラーのテクストとブッシュのテクストを同水準で読んでいるわけで、たぶんド・マン主義が最悪のかたちで現れたらこうなるんだろうなあ、ということ。玄関で「美学イデオロギー」を批判したかと思ったら、裏口から「政治」(あくまで括弧付き)が入りこんで、テクストが「政治」という魔術的価値をおびてしまった、という。

 いや、いつも言っているように、最終的にはテクストのあいだに設けられる分断には抵抗すべきだし、最終的にはバトラーとブッシュのテクストは同水準で読まれるべきなのだが、それはあくまで「最終的には」であって、その手前には、たとえばひとりのクィアのパフォーマンスと、政治家ブッシュの演壇パフォーマンスとのあいだの差異は、「ある」でしょう、と。それを勇み足に飛び越えようとしてしまう「忍耐のなさ」こそ、ド・マンがおそらくファシズム(協力?)の経験を念頭において警鐘をならしたことではなかったか。これ、上記の「文化」についてのつぶやきと矛盾すると思われるかもしれないが、ところがどっこい全く矛盾しない。わたしの言う「差異」とは、文化や政治といったカテゴリーに抽象化された上での差異ではなくて、単独的な出来事としての差異なので。

 ……って、結構循環的な議論になってるのかなあ。くわえて、上記のおおくはマイケルズのせいというよりは、その置かれている状況のせいかもしれない。しかし何にせよ、イントロだけでこれだけの判断をするのはそれこそ「勇み足」なので読み進めましょう。