仕分け(怒)

 「業界」のみなさんはこの間、例の「事業仕分け」を固唾をのんで見まもっていたことでしょう。結果、研究費関係で圧縮されることになったのは、外国人招聘のやつを除けばすべて若手研究者関連。*1いや、非常に腹立たしい。民主党は90年代以降に推進された大学院の肥大化をもとにもどす方向なのだろうが、その際「すでに生みだされてしまったもの」は手当てしないつもりか。

 今一連の授業で使っている教材は、なぜか「新自由主義」という言葉を説明する必要があるような教材が多いのだが、19世紀的自由主義、20世紀的福祉国家、そして新自由主義へ、という雑駁きわまりない説明をしつつ、勢い「日本の場合」を説明し、勢い「民主党はイギリスのニュー・レイバーみたいなもので、表面上福祉政策を押し出してるけど基本路線は新自由主義ですよ」と説明することになるのだが、反応を見ていると今ひとつ、「ぽかん」としている感じがする。

 思うに、今の学生は「新自由主義ネイティヴ」であって、「それ以外」があったことを経験として知らないということだろう。「現在の外部」を想像するためには歴史を学ぶことは必須であるのだが、上記のような表層的な説明では、その壁は越えられない。そこには「経験」の水準が欠けているから。

 文学研究というものは、どの時代をやっていようと、書かれた瞬間にすでに過去のものになったテクストを相手にする以上、必然的に歴史の研究なのであるが、それは同時に、「新自由主義ネイティヴ」たちが「こうあったかもしれないこと」さえも「経験」することを可能にしてくれるものであるはずだ。ひっくり返せば、それを可能にするようななにかがすなわち文学(研究)なのだ。

 「経験」を強調する際の落とし穴は(「ヒューマニズムじゃん」という、もう有効ではない批判は無視するとして)、そこに排他性もしくは非共約性を読み込む/想定することであろう。(実際私が上で学生たちの経験についてそうしてしまっているように。実際は学生たちは「新自由主義以外」を残滓として経験しているはず。)しかし、「こうあったかもしれないことの経験」は、すでにわかるように排他性とは無縁である。それは他者の経験であり、未来性としての経験であるから。(おっと、久々に出ました、未来性。春にやった「未来性講義」、論文化せねば。)

 なんてことを考えつつ、先日まで、来年の英文学会のレジュメを作成しており、それについてのメモをば。「二つの文化」を(また)ネタにするのだが、今度は「メリトクラシー」とともに「リベラル・ヒューマニズム」がキーワードとなるかもしれない。C. P. スノウのイデオロギー的ポジションを考えると、彼の人文学批判は批評理論の教科書的なところでいう「リベラル・ヒューマニズム」批判なのである。というか、乱暴な定義をすると、リベラル・ヒューマニズムの「リベラル」と「ヒューマン」を分断する試みというか。これが新自由主義を準備したとすれば(飛躍してすみませんが、そうなんです)、「批評理論」のクリシェとしての「リベラル・ヒューマニズム」批判が新自由主義下においてはいかに的外れかが前景化される。さらに、スノウは「ヒューマンなもの=生」を分断したという意味で、50年代以降の「福祉国家的生政治」の申し子でもあるわけだが、それを考えたときに、同じ50年代に「生の全体的ありさま」を述べたウィリアムズの驚くべき批評感性が際だってくる。

 なんてことを話すかどうかわかりませんが、メモ。

*1:11/24追記:「結果」と書いたが、まだ結果は出てなくて、科研のその他(基盤も?)や大学の運営交付金は後半戦なのね。いやはや、どうなることやら。