持つことについての覚書き

 キーワード「持つ」について、大事なことに気づいた気がするので覚書き。おそらく、「持つこと」と「あること」の結びつきと断絶が重要(英語のpropertyに表れているような)。"I shop, therefore I am"というのを見て思ったのだが、買い物や所有とアイデンティティが結びついてしまうことを批判する(もしくは馬鹿にする)立場は、その裏側で、「本当の私」と私の所有物は別物だ、という前提をもっている(おっと、トリリングだ)。

 問題なのは、その両方の立場が、個人の私的所有を前提としており、その限りで鏡像的な敵対関係になっていることだろう。つまり、いずれの立場においても、社会的共通資本の所有というのは埒外におかれている。共有としての「持つこと」を埒の内に入れたらどうなるか。答えは、「持つこと」と「あること」が、べつの形で再結合される、というものであろう。つまり、共有としての「持つこと」は、共同体なり社会を前提としつつ同時にそれを作り出す。しかるに、共同体なり社会なりへの所属は、人間が何かで「あること」の根幹である。したがってその場合、「持つこと」と「あること」は、集団性において再結合される。その場合、持つことはすでに疎外形態ではなくなっているだろう。

 問題はその集団が何か、ということに、当然なる。たとえば上に出した社会的共通資本(ヴェブレン=宇沢)という考え方は、社会的費用の内部化という考え方とセットになっている。自動車を使うことは社会的費用を発生させるのだから、それは自動車による受益者が負担すべきである、という考え方。前の研究会では「それじゃネオリベじゃん」ということになったが、おそらく問題は、その「内部化」の「内部」とはなにか、ということであろう。例に出した自動車の社会的費用の内部化の主張は、車社会を肯定したうえで、それを個人主義化しようということではなく、自動車を持つことのコストを高めることでそもそもの車社会を廃絶しようというアクションなのである。このように、この世の中には、純粋に「内部化」すれば廃絶されてしかるべきものが多くある。逆にいえばそういうものは、外部にいる誰かの犠牲のうえに成り立っているということだ。言いかえれば、共有されていないということだ。

 ここまで書いて気づいたのだが、ネオリベ個人主義原理主義化、純粋化は、逆説的に純然たる共有という考え方に帰着する。

 はっきり書いてしまおう。ネオリベのお題目を原理主義的に、徹底的に適用すれば、各家庭にその家庭で消費するだけの電力を生み出せる規模の原子炉を備え付けろ、ということになるはずなのだ。ところが現実には、原発はただちに健康に影響の出ないような遠くにある。不徹底もはなはだしい。ネオリベ的理性がこのように徹底できないこと、これは、私たちが避けようもなく社会の中に生きているということ(つまり、すでに共有していること)を示してはいないか。*1

*1:だから、自動車の社会的費用の内部化という議論も、個人の自家用車をモデルとして考えるかぎりで問題があって、たとえば物流など、自家用車を持たない人間も「受益者」である部分を考えなくてはならない。自動車の社会的費用の内部化が「徹底」不可能なのは、部分的には、そのような共有の部分があるから、とも言える、というより、純粋な内部化を思考することで共有が浮き彫りになるというべきか。