ネオリベ読書会


 昨日は新自由主義読書会。初回ということで趣旨説明とDavid Harvey,
A Brief History of Neoliberalism解題。

 以前の趣旨の紹介にあったように、ある面で新自由主義的なイデオロギーの外部性を想像することはかなり難しくなっている。その原因というのは、新自由主義には(あらゆる支配的イデオロギーがそうであるように)、非常に複雑かつ根深い系譜があるからだろう。現在のまったきオルタナティヴへと勇み足に踏みだそうとすることの危険性を考えたとき、なすべきは弁証法的思考と系譜学的思考であろう。Harveyの本は、前者の「弁証法的思考」という点ではクリアで、新自由主義はその理論上の主張とは裏腹に経済成長を鈍化させ、単に現存するパイを再配分しただけであり、その実、低成長・ゼロ成長の危機に直面している資本主義の矛盾を塗り込めているだけだということ。Harveyは新自由主義の理論と実践の乖離を強調し、詳述するが、新自由主義の「純粋理論」を徹底してみたときに現れる現実の政策の「裏切り」に、新自由主義的資本主義の矛盾が露呈しているというわけだ。

 後者の「系譜学的思考」については、昨日は十分に検討することができなかったような気もするが、Harveyの本は基本的に1978年の断絶というナラティヴで、それ以降の30年間を問題にしている。これにはさまざまな保留、場合によっては批判が必要になるのは明らか。もちろん、経済政策、それを喧伝するイデオロギー、生産体制、文化……とさまざまな位相によって違う系譜が引けるだろう。たとえば自由主義といったときに、歴史的パースペクティヴを長くとれば啓蒙主義以降の問題になるし、もう少し短くとってもたとえば戦間期モダニズムという(Raymond Williamsにいわせれば)戦後のリベラリズムへと「自然化」していく前衛という契機を考えることができる、など。

 ポストモダニズムやそれを理論的支柱とする「新しい政治運動」と、新自由主義の親和性という、Harveyも強調している論点は、これはもうクリシェに近づいてきているのかしら。いや、クリシェだったらどう、という問題ではなくて、それもまた新自由主義の出口のなさを示しているという「大問題」なんだけど。

 まあ、初回なのでこんなところか。飲酒・歌唱。やっぱり朝まで。でも夜明けを迎えることは回避。残念ながら学内から4人とゲスト2人という人数で、宣伝不足の感は否めず。ということで、早速次回の宣伝しときます。

第2回新自由主義読書会
日時:2009年9月23日(水) 16:00〜
場所:一橋大学国際研究館5Fゼミ室2(で、いいと思います。未確認。)

報告者:河野真太郎
テクスト:パオロ・ヴィルノ
     『マルチチュードの文法』廣瀬純訳(月曜社、2004年)
     「君は反革命をおぼえているか?」酒井隆史訳『現代思想』25.5(1997年5月): 253-69.

 今回は、イタリアの哲学者パオロ・ヴィルノの著作を中心にフォーディズム/ポストフォーディズムについて考えます。ヴィルノはポストフォーディズム的資本主義において、「認知労働」「コミュニケーション」が労働資源として前景化したことを指摘していますが、このことは、『マルチチュードの文法』におけるアーレントを受けた議論が示しているように、「前衛」的芸術さらには文化的活動一般にとっての危機であり、その危機をいかにして分節化し、それに対峙すべきかという問題は、ポストフォーディズムとそのおおくの特徴を共有する新自由主義を考える上で、避けては通れない問題です。とりあえずヴィルノの著作を柱にしますが、クリスティアン・マラッツィ『現代経済の大転換』、ハート/ネグリ『〈帝国〉』、廣瀬純『シネキャピタル』、カトリーヌ・マラブー『わたしたちの脳をどうするか』などにも触れるかもしれません。

追記:昨日触れた、Democracy Now!でのHarveyへのインタヴューはこちら。(ちなみにこのサイト、スクリプトもついているので英語の授業でよく使ってます。)
Marxist Geographer David Harvey on the G20, the Financial Crisis and Neoliberalism