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 勤務先での研究会のお知らせです。ぜひご参集ください。わたしももちろん行きます。

第2回トランスアトランティック・モダニズム研究会(講演)のお知らせ

* 日時: 2009年9月27日(日) 16:00〜18:00
* 場所: 一橋大学 東キャンパス国際研究館4階大教室
* 講師:大田信良(東京学芸大学
* 司会及びコメント 三浦玲一
* 事前申込み: 不要


冷戦期米国批評理論とEdward W. Said
――ドライサーかジェイムズかの文学史を、トランスアトランティックに、見直すために

                                 大田信良(東京学芸大学
 
 現在、文学研究の過去・現在・未来を、文化史や文化研究とともに、(再)吟味する作業が続いている。『アメリカ――文学史・文化史の展望』(2005)という論集の、たとえば、「アメリカン・ルネサンス」すなわち冷戦期以降のアメリカをある種特別な再生によって歴史的に創出する企てをめぐる議論、および、セオドア・ドライサーかヘンリー・ジェイムズかというしばらくの間アメリカ文学史を構造化してきた対立図式をめぐる議論は、そのような作業の端的な一部をなすであろう。Jonathan Aracも、“F. O. Matthiessen and American Studies,” Critical Genealogies: Historical Situations for Postmodern Literary Studies (1989)において、また別のやり方で、F. O. Matthiessenの反ファシズム・「国民的統一」を掲げるthe Popular Frontという政治理論と新批評的なシンボルに基づく文学理論を吟味したことがある。Walter Benjaminの「国民」の否定的伝統や過去の蛮行の記憶を掘り起こす反the Popular Frontの政治理論とシンボルと対極にある“constellation”の文学理論を対比しながら。もちろん、Aracの眼目は、二人の批評家の単純な評価などではない。Matthiessenの実践に、その理論で主張される命題を裏切るような契機を掘り起こし甦らせることにある。つまり、アレゴリーによる歴史。
 そして、MatthiessenとBenjaminの対比する解釈作業によってAracが批判のターゲットとしているのは、実は、Lionel Trillingの批評的言説にほかならない。すなわち、ドライサーを強硬に否定してジェイムズを手放しで肯定するあの文学史の図式。いうまでもないことだが、反スターリニズムリベラリズム・ニューヨーク知識人という文化的記号を担うTrillingのさまざまなエッセイ、特に、“Reality in America”(1950)の評価・解釈図式の力は、冷戦期米国批評理論を決定づけたものであった。Edward W. Saidも、“Reflections on Recent American ‘Left’ Literary Criticism,” The Question of Textuality: Strategies of Reading in Contemporary American Criticism (1982)で、<冷戦期赤狩りまでのリベラリズムマルクス主義>と<60年代若者文化・反戦運動、フランス経由の左翼的批評理論>との断絶を、重要な歴史的契機として指摘している。このような冷戦期米国批評理論の問題と、Saidの(反)アメリカ的というよりはむしろ、トランスアトランティックと呼びたいような仕事とは、いかに議論がクロスするだろうか。他者としての中東アラブ世界に対する表象に焦点を当てながら、たとえば、20世紀米国の社会諸科学、エリア・スタディーズの歴史的系譜を、歴史=空間的に、19世紀英仏の帝国主義イデオロギーから辿りなおしたOrientalism (1978)の理論と実践は、21世紀の文学・文化研究において、どのように展開=転回する可能性があるだろうか。今回の発表および議論の中で、そのためのいくつかの目印をつけることができればと思う。