芸がある

 『Web英語青年』のキーワード連載、今回は川端康雄「芸/芸術」です。

 じつのところ、毎回キーワードが何であるかは知っていて連載を待っているのだが、「芸/芸術」と聞いて私がまず思ったのは「至芸の連続としてのポストフォーディズム」ということであった。

 つまり、パオロ・ヴィルノアーレントを経由して指摘するところでは、かつて「活動」の領域に属していた「芸」はいまや「ふつうの」ものとなった。ポストフォーディズム労働者の労働とはまさに芸の連続であるということ。

 しかし、それが忍耐の足りない思考であることをしみじみと反省。今回の文章は、まさにその「ふつうのもの」としての芸/芸術の可能性の話で、それがポストフォーディズム的であるといって(いや、部分的にはやはりそうでもあるのだが)放り投げることは、この連載の精神に反することである。

 ではどうすればいいのか、というところで、川端先生(どうしても先生呼ばわりしてしまいます)の「芸」が光る。勝手な解釈を加えるならば、「芸/芸術」がふつうのものとなったという判断自体が間違っている、というよりは抽象化の産物であるということではないか。新自由主義が個人化のイデオロギーでありつつ実践上は集団的に少数者の利益を守っているように、「芸/芸術」もいまだ実践上は「ふつう」のものにはなっていない。それを徹底して「ふつう」のものにしよう。と言うと50年代のウィリアムズが(成人)教育についてとっていた姿勢を思い出す。教育はいまだ「ふつう」のものにはなっておらず、「はしご」の比喩によって語られるものだという。

 この呼びかけは、文化が「ふつう」のものになったことに楽観的な姿勢を持つ向きにとっても、また文化を「特別な」ものにしようとする向きにとっても理解しがたく、それゆえに両者にとって根本的な批判たりえる呼びかけだろう。