みんな負け

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

 うーむ、残念。残念であるからには期待していたわけだし、その期待がことごとく裏切られたというわけでもないのだが。

 期待というのは、80年代以降の日本の批評を清算し、フレッシュ・スタートを切るためには、80年代以降の批評を知識社会学的に眺めなおす、という、一種の毒抜き作業は必要であろう、と思っており、実のところそれをめざす類書がこれまでなかった(あったのか?)からである。著者が宣言しているようにこの本は、思想の「内容」よりもそれが伝えられる「形式」、つまりメディア上での、先行者を意識したパフォーマンスという側面を重要視しつつ「ニューアカ」以降の批評=思想を紹介していく。

 それが上記のような「毒抜き」たりえていない理由は二つある。

 ひとつは、著者自身にとって対象となる批評・批評家が「近すぎる」から。著者はあくまで批評家や思想家ではなく、一読者であることを再三強調し、上記のごとく「思想の伝達形式」面を強調するのだが、裏腹に、どうしても思想内容への呪縛(もしくはシンパシー)から抜け切れていない、というか、「書いてしまう」時点で著者はすでに一読者ではないというパラドクスが解決されないままに、その矛盾は文体(ですます調、「……と思います」の多用)レベルで解消が試みられる。その辺、要するに中途半端なのではないか。浅くなるならもっと、徹底的に浅くなっていいのではないか。しかしまあ、関心のある誰にとっても80年代以降の批評なんて「近すぎる」存在であることは避けられないので、これはないものねだりか。帯にあるように思想と批評の入門書(わかりやすくまとめる)でありながら、浅田彰の「チャート化」を社会学的「現象」として見るという(出版の事情で強いられた?)矛盾もあるのだろう。

 もうひとつは、「東浩紀のひとり勝ち」という現在へといたる物語構成。いや、はっきり言って東浩紀はひとり勝ちなんかしてない。それを言ったら、批評はみんな負けてるわけで、東浩紀は「みんな負けていく中でひとりちょっとはがんばってる人」くらいの位置づけではないのか。(東は「勝ってなんかいねーよ」と怒るべきである。)それを「ひとり勝ち」としてしまうのは、視野が狭いといわれてもしかたない。これは「この人が、あの本が論じられていない」とかいう水準の話ではない。思うに、上記のような期待を抱いてしまう私は、「思想市場のシーソーゲーム」にうんざりしているのであって、まさにそのシーソーゲームをなぞってみせているこの本は、そのうんざり感を確信へと導くのみであり、元気が出ないのである。この本は、まさに著者自身が叙述するゼロ年代シニシズムで書かれてはいないか、ということだ。