Ex/chang(el)ing of Hope

 久々に映画の話。(いろいろ観てはいるのですが、最近はなにか書きたいと思わせる作品があまりなく。)

チェンジリング [DVD]

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 アンジェリーナ・ジョリーの"Hope"という台詞と、哀しくも力強い微笑みを見るための映画です。

 思うに、人はそのような希望によって生きて/生かされているのかもしれない。

 希望を自らに与え/与えられることなしにいかなる生があり得るのか。それは、この映画の題材となっている、猟奇殺人犯にさえもあてはまる。彼の最期の矛盾した行動──真実を告げると呼び出しながらも、真実を告げないこと──は、ジョリー演ずるクリスティン・コリンズに、その後の生を生きるための絶望的な希望を与える結果になる。その行動自体は、彼が希望ある死を死ぬためのものであるのだが、意図せぬままに二人のあいだでは希望(または絶望)の交換のようなものが生じてしまう。その後では、もうひとつの「希望」に関する最後のシークエンスは実のところ付け足しのようなものにさえ思える。付け足しどころか、最後のシークエンスは「絶望的な希望」を単なる希望へと転換してしまう。現実の生は前者の絶望的な希望に突き動かされているものであるのに。

 クリスティンが抱く/抱かされる絶望的希望とはしたがって、物語のはじまりにおいて息子の死体ではなく取りかえっ子が届けられたことの反復となっている。取りかえっ子の存在こそが「真の息子」への激烈な探求を強いるのであってみれば。そこに「偽りの希望」などという名前をつけても始まらない。生そのものが、その本性において偽りたらざるを得ない希望によって、そしてその「偽性」の終わることなき暴露によって保たれているのであるかぎり。われわれはみな、「取りかえられた生」を生きている。そのように規定したときに生ずる、「取りかえられた生を生きるという以外の生はあり得ないのか」という疑問も、「「取りかえられた生を生きるしかない生」が「取りかえられた生」ではないのか」というロジックに回収されてしまう、という考えは、「そのようなロジックに回収されない生」を想定してしまっているのだろうか、という考えは……(以下無限ループ)。