自由の牢獄

 なんだか、夏学期(と本務校ではいいます)も「先が見えて」しまい、というか、「先を見て」しまい、ブログ更新にも気が回らない状態でした。

 その間色々あったが、昨日は同人誌企画の「討議」収録。こういう、ほぼフリートーク形式の討議は初めてで、難しかったが、チャレンジとしては面白かった。ゲストで来ていただいた演出家Sさん、パフォーマーHさんの存在のおかげで、討論が自家中毒的になることも避けられたし。

 Sさんの話と、その後の飲み会話の中で、「クリエイトしようとしてしまうこと」の問題は深刻であると思った。90年代にフォーサイスが取りいれた、インプロヴィゼーションのメソッドは、役者に「創造」することを舞台上で強るのだが、それがSさんは見ていてつらかったという話。またダンサーや役者たちも、「自己実現」のための「クリエイション」をしなければならないという思いこみに、いかにとらわれているかという話。

 これは、舞台芸術に限られない話であると思えた。そしてまた、ポストフォーディズムに直結もしていると。自由に、臨機応変に、柔軟に、可塑的にクリエイトせよという命令。またそれができるための体制=体勢を整えよという命令。つまり、オンデマンドで現勢化できるよう潜勢力を蓄えよという命令。

 ポストフォーディズムの命令が以上のようなものであるならば、それはいかにして「拒否」できるか。ひとつの水準としては、そのような命令がもたらす「苦痛」を分節化することが重要であろうか。たとえば、役者に舞台に上がってもらう。なんのお題も条件も与えず、「演じて(=クリエイトして)」と命ずるとする。おそらくこれは役者にとってこの上ない拷問であろう。しかし、舞台芸術は多かれ少なかれそのような無理な命令によって役者の潜勢力を活用することで成立している。これはポストフォーディズム化の労働者とおなじである。作品を生産するための協働に、自己の創造的潜勢力を総動員せねばならないという意味で。その苦痛を、まずは分節化すること。

 もうひとつは、「クリエイションの拒否」の典型的たりうる形式としての「反復」。これは昨日も話題になったが、「まったく同じものの反復」というのは不可能にして不気味なものである。差異をはらむ反復というポストモダンクリシェの資本主義との相同性ということも考えると、この、じつはほぼ不可能である「まったく同じものの反復」をどう理論化し具体化するかという点は、引き続き考えていきたい論点である。

 なんにせよ、活字となるのを刮目して待たれたい。(でも同人誌なので「発売」はされませんが。)

 で、その知的興奮を引きずったまま歌唱大会になだれ込んでみなさん(わたしも含め)ちょっと大変なペースで盛り上がる。もう一軒、という誘いを振り切って終電で帰宅。帰るまでに二度も酔っぱらいが駅員にからんでいるのを目撃。しばらく離れた間に、東京のドキュン化が進行しているような気がするのは単なる気のせいか。

追記:下記の翻訳、ご恵贈いただきました。決定版、ですな。

動物農場―おとぎばなし (岩波文庫)

動物農場―おとぎばなし (岩波文庫)

追追記:どういった偶然か必然か、本日は↓これをご恵贈いただきました。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

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